旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

夜行列車の考察 ~なぜ、JRは積極策に出なかったのか~

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 一般に、利用者離れが始まると、利用者を取り戻そうと様々な「改善」を行うのがサービス業をだけではなく、鉄道会社などの運輸業でもすることだろう。会社は利潤を生み出すことで成り立っているから、収益が減ればそれに対して増収につながる方策をとるのが一般的だ。
 ところが、夜行列車はたの輸送機関に利用者を奪われ衰退をし続ける一方で、JRは車両や運転ダイヤなど、積極的な改善をするどころか、放置し続けることになった。その理由はなぜか。

 まず、「夜行列車を運転し続けたのがJRだから」だ、といっても過言ではないと思う。
 この文言に、「どういう意味だ?」と思われる方も多いだろう。「なにをいいたいのか」「JRじゃなければ誰が運転するんだ」などといわれるかも知れない。だが、私は、「JRだから」だと考えている。
 JRは1987年の国鉄分割民営化によって誕生した、6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社、そして鉄道通信会社とシステム会社、1つの財団法人だ。旅客鉄道会社と貨物鉄道会社は多くの方がご存知だと思う。
 鉄道通信会社は、全国津々浦々に張り巡らされた国鉄の鉄道網を網羅する基幹通信回線を管轄する会社で、設立当初は鉄道通信株式会社(略称:JR通信)であった。その後、日本テレコムと名を変え、イギリスのボーダフォンに買収された後に、ボーダフォン日本テレコムを売却する際にソフトバンクに買収されて、今日ではソフトバンクになっている。あのソフトバンクがJRの鉄道電話回線を運営しているとは、当時誰も予想しなかっただろう。かくいう元職員の私でも驚いたものだ。
 JRシステムは、駅にある「みどりの窓口」の端末及びそれをつなぐシステムを管轄する会社だ。JRの乗車券や特急券が、全国どこでも購入できるのは、東京の国立市にあるこの会社のおかげだ。他に見えないところでは、JR貨物のコンテナ輸送情報システムなど、見えないところでJRにかかわるコンピュータシステムの開発と運用・管理を行っている。
 まあ前置きは長くなってしまったが、こうした会社。一般には民営化されたことで、民間会社になったと思われるだろう。確かに、その通りであるが、正確ではない。というのも、今日完全民営化されたのは東日本、東海、西日本、九州の4旅客会社だけだ。あとは、国が株式を保有する特殊会社で、当然のように国の管理下に置かれている。その状況が、実は民営化当初どの会社にもあったのだった。
 つまり、看板はJRにかけ替えられ、対外的にも新しい会社となっていたが、その実中身といえば相も変わらず「国鉄」のままだったといえる。それは、国の管理下に置かれていたということのほかに、体質そのものが「国鉄」のままだったといえるだろう。その理由の一つに、発足当初からほとんどの経営陣は旧国鉄官僚や運輸官僚によって占められていた、という見方ができる。
 官僚出身者に民間企業の経営は、まったく畑違いの仕事といえる。役所は黙っていても納税という形で収入があるが、民間企業ではそうはいかない。営業施策如何によっては、増収にもなるし減収にもなってしまう。
 そしてその体質は、発足当初のJR各社の職員にも共通していたことだと考えられる。お役所的体質で商売をすれば、いわゆる「殿様商売」となってしまい、サービス面だけでなくハード面やソフト面でも弊害が生じてしまう。実際、看板が変わり、新しい車両の開発には力を入れるが、それを走らせるための線路設備に対しての投資は、どちらかといえば消極的な姿勢だった。
 もう一つの弊害は、旧国鉄から綿々と受け継がれてきた「伝統」だろう。良くも悪くも伝統というのは、その組織が培ってきた風土だ。伝統を受け継ぐことは悪いことではない。しっかりとした確かなものを創るためには必要なものだが、反面、新しいことへの挑戦を阻むことがしばしばある。

 こうした旧国鉄からJRへと移行し、看板も代わり国民からの受けもよくなった新会社。だが、そこで使われ続けている車両は、すべて国鉄から引き継いだものばかり。原設計が1960年代から1970年代のものがほとんどで、それらは長年の経験と技術に支えられた信頼性の大きい機器類を搭載したものだった。言い換えれば、信頼性はあるが経済性はないといっていい。私鉄が次々に新機軸を導入した車両を開発し、運行コストを下げて経済性を上げていくのを横目にに、それらの導入に保守的なまでに国鉄技術陣は消極的だった。
 夜行列車についても同じだったといえる。運賃面では高価で、所要時間の短縮も図らない。それどころか、年を追うごとにダイヤ編成上の厄介者として扱われ、所要時間は伸びていく一方だった。加えて、夜行列車として運用する車両は国鉄から引き継いだ20年以上使われ続けている古い車両ばかりでは、利用者も敬遠するであろう。
 そこへもってきて、悪くも国鉄から引き継いだ「伝統」が、それらの改善を阻害していったと私は見ている。

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1987年民営化直後の特急「あさかぜ」。先頭に立つEF66形電機機関車は1966年に高速貨物列車専用機として開発されたが、「はやぶさ」「富士」のロビーカー連結による牽引定数の増加に伴って、それまでのEF65形から運用に余裕のあった当機に代えられた。とはいえ、既に車齢は20年を超えている。客車は24系25形客車で1973年から製造されており、この時点ではまだ新しい方であった。とはいえ、国鉄から引き継いだ車両であることには変わりない。©Norichika Watanabe

 同じ方面へいくつもの列車を走らせるのは効率も悪く、経済性にも乏しいといえる。実際、東京発九州方面行きの夜行列車は「さくら」「富士」「はやぶさ」「あさかぜ」「みずほ」の5本を走らせている。このうち「富士」は小倉駅から日豊本線へ直通して、大分・宮崎方面へ向かうが、他の4本はすべて鹿児島本線へ入っていく列車だ。ただでさえ乗客離れが激しく、寝台は閑散とした状態の車両を15両近くも連結して走らせるのはいくら何でも採算性を度外視していると言わざるを得ない。後に編成の短縮や、列車の統廃合と併結を行っていくが、時既に遅しといった案配だった。このように、いくつもの重複する区間を走る列車を多数運転していたのは、やはり国鉄から引き継いだ伝統であると考えられる。もしも、このような重複状態を解消し、選択と集中を行い効率化を図っていれば、もしかすると挽回のチャンスはあったかも知れないだろう。
 次に、これらの列車の停車駅の多さも問題だったといえる。乗務員が交代するための運転停車は除くが、それでも停車駅が多すぎるが故に所要時間は長くなり、鉄道のメリットである速達性が生かされていなかったといえる。
 具体的な例を挙げれば、前に述べた特急「あさかぜ」の停車駅は、

東京駅 - 横浜駅 - 熱海駅 - 静岡駅 - (浜松駅) - (名古屋駅) - 〔大阪駅〕 - 〔姫路駅〕 - 岡山駅 - 〔倉敷駅〕 - 〔新倉敷駅〕 - 福山駅 - 尾道駅 - 三原駅 - 西条駅 - 広島駅 - 宮島口駅 - 岩国駅 - 柳井駅 - 光駅 - 徳山駅 - 防府駅 - 新山口駅 - 宇部駅 - 下関駅 - 門司駅 - 小倉駅 - 博多駅 ※このうち()は下り列車のみの停車、〔〕は上り列車のみの停車を表す

 と、実に多くの駅に停車している。これだけの駅に停車していては、所要時間は短くすることは難しいであろう。これもまた、伝統的に停車してきたがために、思い切って停車駅を減らすことが難しかったようである。もし、JRが思い切って停車駅を削減しようものなら、地元からの反発が起こる可能性はあったであろう。
 しかし、乗降客数をしっかりと把握し、利用実態をきちんと説明すればある程度の理解が得られた可能性もあるといえる。そうすれば、夜行列車は長距離都市間輸送に特化し、主要駅にのみ停車して、その他の駅には地域の都市間輸送を担う列車へ任せるという方策も考えられただろう。
 こうした考えは民間であれば当たり前の発想になったであろうが、残念ながらJRにはなかった。やはり、経営者が官僚出身者だったからだと考えられる。その論拠の一つとして、2015年にJR貨物の会長に就任した石田忠正氏が実行した経営改革である。

経営改善に向け、2013年に外部から招聘したのが、現会長の石田忠正氏。日本郵船の副社長や日本貨物航空の社長を歴任した海運・空運のプロだ。新たな視点によるJR貨物再建の担い手としてはベストの人材だった。

JR貨物に来て石田氏が驚いたのは旧国鉄時代の意識が抜けきっていないことだった。

たとえば、コンテナの調達コストは海運業界に比べ明らかに割高。資材調達部署に1円でも安く調達しようという発想がなかったのだ。営業面では、行きは荷物が満載でも、帰りは空(から)の列車が走るのは当たり前。少しでも空きを埋めようという意識が希薄だった。

「石田会長は数値に基づいて経営を見るという姿勢が徹底している。われわれはデータを持っていたが、使いこなしていなかった」と、JR貨物の田村修二社長は言う。(出典:東洋経済JR貨物、悲願の株式上場に立ちはだかる障壁」より)

 この記事からもわかるように、コスト意識やデータを活用しようという発想はJRにはなかったといえる。まして、分割民営化直後ならなおさらのことであろう。実際、JR貨物は2016年度に悲願の黒字化を達成している。

 話は少し逸れるが、私が電気区勤務の時代に、庁舎内の照明器具に使う安定器(小型の変圧器)を、すべてインバーターに置き換えようと模索したことがあった。その理由はランニングコストを抑えることができるからだ。ただでさえ、営業収支がよくない、保守に使える予算がないといわれ続け、入社直後に起きた台風による武蔵野線新小平駅水没の影響で営業収入が極端に落ち込んだために、初めて満額もらえるはずだったボーナスはカットされてしまった。
 それならば、24時間つきっぱなしの照明にかかる電気料金を削減できれば、営業経費の削減につながるはずだと考え、一部署の、それも若干20歳になったばかりの資材担当に過ぎない私が、支社にこのインバーター安定器を発注するように依頼をしたのだ。ところが、インバーター安定器は通常の安定器の2倍から3倍近い値段がする。このような高いモノを発注するとは何事だ!と、当時丸ノ内にあった支社経理課に呼び出された。
 支社に行くと、不機嫌な顔をした経理課長と、私より1期あとに入社した大卒の女性担当者が半分泣きそうな顔をして待ち構えていた。私はカタログデータと、当時の電気料金を基に、通常の安定器とインバーター安定器を比較したランニングコストのデータを示した。それと同時に、カタログデータと実際にメーカーに問い合わせた情報を基に、安定器の寿命と交換にかかるコストもデータ化して示し説明をした。
 その説明に半分納得してくださった経理課長は、「なぜ、ここまでするのか」と私に問うてきたので、「コストを減らすことは、収支の改善につながるのではと考えた。私は一介の電気係に過ぎないが、いま私が会社にできることは電気使用量を削減することだ」と答えたのだった。いま思えば、よくもまあここまで堂々と言い切るものだと苦笑いしてしまう。
 経理課長は「そうか、よく考えてくれているんだな」とおっしゃってくれて、私が発注したインバーター安定器の購入を認めてくれた。
 後にインバーター安定器が発注した数が、電気区の資材倉庫に納入されてきたが、その後実際に照明器具の安定器交換作業にあたった先輩から、「あれは軽くて作業しやすい。コードも差し込むだけで楽だ。一石二鳥になるんじゃないか」と褒めてくださった。

 このエピソードからもわかるように、コスト意識、新しいことへの挑戦、そしてデータの活用をするという意味において、JRにとって難しいものだったと考えられる。当時はまだまだ国鉄であったことが覗われよう。

  また、設備積極的な投資をすることにも消極的であったといえる。というよりは、そうすることが難しかったというのが実際のところだ。
 東京-九州間の夜行列車は、もっとも経営資源が潤沢なJR東日本の受け持ちはなく、ほとんどがJR西日本JR九州の受け持ちであった。
 JR西日本京阪神という比較的高い収入源があったものの、この地域は昔から私鉄との競争が激しく、経営資源をこの地域に集中する必要があった。加えて、山陽新幹線も収入源ではあったが、東海道新幹線ほどは見込めず、航空機との競争にさらされていたし、山陽も山陰もどちらかといえば輸送密度の低い路線を多く抱えている実態から、閑散として客離れが進む夜行列車への投資は難しいものがあったと考えられる。
 JR九州は今日でこそ株式上場を果たしたが、民営化当初は経営基盤が脆弱で赤字が見込まれる「三島会社」と呼ばれるうちの一つだった。やはり多くの赤字路線を抱えており、大きな収入源といえば福岡と北九州近郊ぐらいであっただろう。あとは観光客が収入源として期待できる程度であったから、集客のために多くのアイディアとインパクトのある列車を企画しつつ、九州島内の都市間輸送に力を注ぐ必要があった。経営資源の少ないJR九州にとっても、利用者の少ない夜行列車への投資は難しく消極的にならざるを得ない。

 加えて、夜行列車独特の人的コストも無視できない。
 夜行高速バスは二人の乗務員が、交代を繰り返しながら目的地までハンドルを握ることになる。1便あたり、2名で済むことになる。
 ところが、鉄道の場合はそうはいかない。運転士は受け持ちの区間ごとに「リレー」していく。これは、民営化前からも同様で、運転士が所属する区所の乗務範囲が決められているからだ。例えば、度々例に挙げている「あさかぜ」では、東京からハンドルを握る運転士は熱海まで乗務する。そして、熱海から乗務した運転士は浜松で交代する。浜松から名古屋、名古屋から大阪といった具合に、何度も交代する。
 これは、鉄道独特のものといえる。運転士は駅の配線や信号機の位置、線路の線形や速度制限のある場所など、運転する路線については熟知していなければならない。加えて、線路保守などで臨時に速度制限などがあれば、そのことについても乗務前にチェックしている。そのため、道路のように二人の乗務員だけで運転し続けることが難しい。
 特に夜通し走り続ける夜行列車は、乗務する区間によっては深夜のみを担当する区所も存在する。JR東海の管内は、すべて深夜の乗務になってしまうため、運転士には深夜手当を支給しなければならず、人的コストも無視できないものになってしまう。自社が運行する列車ならやむを得ないが、東京対九州夜行列車のほとんどはJR西日本JR九州が受け持ちになっているので、JR東海からすれば「他社の列車」に過ぎない。
 このように、分割民営化時にJR東日本に収入源を集中させまいとし、既に利用者離れが始まっていたにもかかわらず、長距離夜行列車は大きな収入源になり得ると誤った認識を基にして、夜行列車の受け持ちをJR西日本JR九州に割り振ってしまったことが、離れていった利用者を呼び戻そうとする積極策を講じれなかったと分析できる。それ故に、設備投資に対しても消極的になり続け、製造から30年以上経過したランニングコストの高い車両に、さらに改造を加えていく手法に頼らざるを得なくなっていったといえる。
 今日のクルーズトレインの盛況ぶりを見れば、老朽化が進み陳腐化した客車を新調し、寝台車にこだわらず時代のニーズに合った車両構成をするとともに、さらに運転する列車と停車駅を絞り込んで鉄道本来の強みである「定時性と速達性」を生かしていれば、夜行列車の衰退は防ぐことができたと考えられるし、もしかするとある程度の収入源となった推測できる。