旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その2「幼稚園が鉄道熱に拍車をかける?」

◆幼稚園が鉄道熱に拍車をかける?
 折しもブルトレブームが到来し、当時は子ども向けの鉄道関連のグッズや図鑑が巷に溢れていた。とても仲のよかったN君の家は、地域でも地主の家系で比較的裕福。だから、その友だちの家に遊びに行けば、私が知りたいことの資料がたくさんあった。
 そして、運がよいことに、N君もN君のお父さんも鉄道が好きだったから、そりゃぁもう毎日の如く入り浸っていた。そして、新聞のチラシ裏を探しては、一緒になって特急列車の絵やヘッドマークを描いたりして遊んだものだ。
 私が幼稚園の年長組といえば、1977年(昭和52年)。前年に幼稚園から歩いてほどない所に、武蔵野南線梶ヶ谷貨物ターミナル駅が開業していた。
 ある日、担任の先生から「今日はお出かけします」といわれ、何クラスあったかは憶えていないが、5、6歳の小さな子どもたちが列をつくって歩いて行くと、この梶ヶ谷貨物ターミナル駅の中へと入っていった。
 どういう経緯で幼稚園の社会科?見学が実現したかはわからないが、鉄道が好き、それも国鉄に憧れていた私にとって、それは願ってもない絶好の見学だった。
 駅本屋には黄緑色のコンテナを模した看板に、JNRのロゴマーク、「戸口から戸口へ 全国コンテナ超特急 梶ヶ谷」と書かれた国鉄貨物のフレーズは、またも鉄道少年の私に新たな見地を与えてくれた。

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 なるほど、貨物列車というのもあるのか。
 出迎えてくれた駅長さんや助役さんたちはみなさん笑顔。そして、大人でも難しい鉄道貨物の話を、幼稚園児にもわかるようにと丁寧にお話されていたことは憶えている。もっとも、内容は憶えていないけど。
 そして、コンテナホームを案内されて中を見学。
 コンテナホームっていったって、入口から続いているアスファルト道路のままだから、小さい子どもたちにとっては道路の延長線上のようなもの。その道路の脇には線路が敷かれて、板っぺらみたいな茶色い貨車が留置されていた。
 これこそが、今も走り続けているコンテナ貨車だが、その当時は理解はできず、とにかく自分の住む街に、それもこんな身近なところに国鉄の駅がある。それも、他の駅とはまったく違う何か特別な駅が!
 もう、私は興奮せずにはいられず、家に帰ると母に見学のことを話したものだった。もちろん、友人のN君と、同じ団地に住むY君とも、駅の見学の話で大盛り上がり。今度は、貨物列車のことを調べだしたのは言うまでもない。
 ところで、この見学から数日後のこと。
 私はどうしても、もう一度貨物駅を見たいと思い立ち、幼稚園から帰ってくると一人とぼとぼと歩いて梶ヶ谷貨物ターミナル駅へと行った。子どもは興味をもつと何でも憶えるとはこのことで、私は幼稚園から駅までの道をしっかりと憶えていた。
 そして、夕暮れ近い、太陽が西に傾いて朱色になりかかった頃(多分、冬だったと思う)、あの大きなコンテナの看板のある駅に着いた。やはり間違いない、この前行ったのはここだ。
 私は駅の入口に誰もいないことを確かめると、恐る恐るコンテナホームへと入り込んでいった。この前の見学ではゆっくり見ることができなかった貨車が、今日は思う存分見ることができると心を躍らせながら、コンテナホームを進んでいく。
 そして、やはりあった!コンテナ貨車が。
 静まりかえった貨物駅に、動くことなく留置されたままの貨車は、まったく動く気配もない。そして、それを見ながら何を載せるのかな?どこからやって来て、どこへ行くのかな?などと、心ゆくまでじっと眺めていた。
 時間が過ぎると日も傾く。だんだんと太陽の明るさはなくなり、いよいよ夕暮れという言葉がぴったりの朱色の空になってきた。コンテナホームにはずっと静まりかえったまま、人が来る様子もない。さすがに6歳だった私は心細くなり、来た道を戻っていくことにした。
 もちろん、駅本屋を通り過ぎるときは、誰にも見つからないように細心の注意を払って。
 この6歳の時の体験は、後に「とんでもないことをしたもんだ!」と我ながら恥ずかしくなるくらいに呆れたものだ。だが、それだけ私の鉄道への熱は強くなっていったのだろう。
 とにかく、事故がなくて何よりだったけど。