旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

7年前の今日、私が体験したこと ~東日本大震災の日に寄せて~【1】

 あれからもう7年。いえ、まだ7年しか経っていないのかも知れません。

 2011年3月11日14時46分。初めはゆっくりとした揺れから始まり、やがてこれまで経験したことのない、地面が波打つ大きな揺れ。東日本大震災(東北地方太平洋地震)が発生しました。私が住んでいる関東南部ですらこれまでに経験したことのない揺れだったので、震源に近い東北地方は想像に絶する大きな揺れと、とてつもない大きな津波に襲われたのかと思うと、「恐ろしい」という言葉だけで片付けることができないと思います。

 当時、私は職場の危機管理主任でした。当然、こうした災害時には予め計画してある避難計画の実行、できうる限りの情報収集と上司への報告と助言、計画にない事態への的確な対応計画の立案と提案などなど、普段では考えられない膨大な量の業務をこなすことになります。
 もちろん、この日、地震が起きてからは、未曾有の異常事態に対処すべくすべての神経を集中させ、もてる知識と判断力、そして行動力などすべてを投じました。言うまでもなくアドレナリンは出っぱなし状態で、疲労などという言葉はどこかへ吹っ飛んでしまうほどでした。
 とにかくすべては預かっている子どもたちの命を守り、無事に親御さんへ返すことが私に課せられた最大で、唯一のミッションとなります。

 地震発生直後、私が勤めていた職場は停電になりました。もちろん、職場だけではなく、近隣を含めた地域一帯が停電になってしまい、町は大混乱に陥りました。
 計画では放送を流して避難誘導することになっていましたが、停電では放送など流すこともできません。最初から計画の想定を超える事態に陥ってしまいました。
 とはいえ、この当時よく言われた「想定外の事態」という言葉があてはまりましたが、危機管理の世界では「想定外」という言葉はタブーでした。危機管理計画・・・コンテジェンシー・プランでは、最悪の最悪を想定しこれに対処し事態を収拾することが求められ、その計画はそうした事態でも余裕をもって対応できるものでなければなりません。そのことは、私がシステムエンジニアの時代に携わった「西暦2000年問題」で、社内の情報機器に対する危機管理計画を立てる時に学んだことでした。

 しかし、震災の時に、停電のためにすべてのライフラインが使えなくなることなど、想定した計画はどこにもありませんでした。このこと自体、言い訳の許されないことだったと今でも反省させられています。
 計画がないから何もできません、などというのは口が裂けても言えません。というより、そんなことを口にする暇があったら、すぐに対応策を考え実行することが重要です。とにかく、子どもたちに切り傷一つ負わせてはなりません。
 私はトランジスタメガホンを鷲掴みにして揺れる階段を駆け上がり、こちらが指示をするまで安全な場所に留まるように指示をします。あまりの揺れに廊下で怯えている子どもたちに駆け寄り、近くの部屋へ入るように促し、とにかく少しでも安全だと思われる場所へと誘導しました。
 揺れも収まり、一時的にせよ安全だと判断でき、ようやく屋外へと避難させます。

 屋外に避難し集まることには成功しました。怪我人や行方不明者が出ることはなく、全員の無事が確認されました。
 しかし、この地震は何なのか?どこが震源でどうなっているのか。その当時、私たちの手許にはまったくといっていいほど情報がありません。情報がなければ次の行動を決めることもできません。
 一方で、避難した子どもたちは一様に怯えています。それはそうでしょう。大人の私ですら経験したことのない大きな地震です。子どもたちにとっては、まさに恐怖そのものだったと想像できます。
 その子どもたちを安心させるのも私たち大人の役割であり、特に危機管理主任の私に課せられた使命でした。情報がない以上、具体的に何が起きたかは話せませんが、避難したからにはとりあえず大丈夫、怖い気持ちは分かるから落ち着いて次の指示を待つように話しました。
 ところが大人たちは大混乱に陥っていました。入ってくる情報はごく僅かでしかなく、地震の実態が把握できていません。子どもたちを帰宅させる方法も決めかねていました。
 計画では、大規模災害が起きたときには電子メールで親御さんへ連絡し、親御さんに一人ひとり安全を確認しながら引き渡して帰宅させることになっていました。ところが、停電でライフラインはすべて寸断され、電子メールを送ることができません。つまり、計画は既に第一段階から破綻していたのです。
 上司たちと対応策を話し合っていると、今度は何やら罵声のような声が聞こえてきました。地震とともに我が子を引き取りに来た親御さんたちです。何一つ説明がないことに苛立っているようでした。
 そこで、私は現在の状況と、今後どうするかを説明するように進言しました。
 しかし、何も決まっていないのに説明はできないと上司が言います。
 もちろん、私はそのことを承知していました。決まっていないものは話せません。ですが、いま、どのようなことを話し合っているのかは説明ができるのではないかと食い下がります。
 上司はようやくトランジスタメガホンを持って説明を始めてくれます。
 ところが、今度は声が小さくて聞こえないという苦情。それもそうだろう、こんな小さなトランジスタメガホン一つで、300人からの大勢の人に話をするにはあまりにも非力です。
 情報は適切かつ確実に伝える。
 ここでも、かつての仕事で学んだことが蘇ってきました。
 私は事務職の先輩に乾電池があるかを尋ねました。単一形の乾電池を最低でも16個です。その先輩はすぐにかき集めてくれると言って建物へと戻っていきます。もちろん、私も戻っていきました。そして、ポータブルアンプ・スピーカーを2台担ぎ出し、先輩がかき集めてきてくれた乾電池をそれに突っ込んで、即席の放送設備を作りました。
 鉄道マン時代、予想だにしない障害事故に臨機応変に対応することを学んでいました。手持ちのものを組み合わせて、少しでもニーズに合ったものを作り上げることはシステムエンジニアの時代に学んでいます。それが少しでも役に立った瞬間だったと思います。