旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 海底トンネルを走り続けた銀釜

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 ダイヤ改正が行われる度に、長年走り続けてきた「古き良き」車両たちが姿を消していきますが、やはり「時代の流れ」なのでそれはそれで如何とし難いものがあります。
 まあ、古い車両ほど電気代はかかるし、交換用の部品も底をつき始めていますし、色々な意味でコストがかかっていくので仕方がありません。自動車だって、製造から10年を超え始めることにはあちこち不具合が出始めるようですから。

 さて、今回のダイヤ改正で、非常に気になっていた車両がありました。
 それが今回紹介するEF81形300番台です。

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▲幡生操に向けて門司駅で待機する4重単機列車。前2両は400番台、3両目に新製間もない450番台、最後尾に300番台304号機が連なっている。この304号機は既に廃車となってしまったが、途中青の飾り帯を入れられたこと以外、終焉までほぼ原形を保っていた。(筆者撮影)

 EF81形ならまだまだ走っているでしょ?という声もなくもないですが、その活躍は非常に限定されたものになってしまいました。
 東日本地区では双頭連結器を装備した赤いEF81形が、配給列車や工事列車などで活躍しています。とはいえ、いずれも定期運用ではなく臨時列車としてのものですので、かつてのような「大活躍」とはいかないでしょう。
 西日本地区に目を向けるとほとんど壊滅状態に近いのではないでしょうか。かつては、大阪-札幌間を結ぶ寝台特急トワイライトエクスプレス」を牽いた敦賀運転センターのEF81形も、残すところ3両のみとなってしまいました。加えて、すべて濃緑色に塗られたトワイライトエクスプレス色なので、登場時の面影はあまりないように思えます。
 こちらも、今では定期運用もなく工事臨時列車など、ごくごく僅かな運用をこなす存在です。
 貨物に目を向けると、まだまだ活躍していました。
 門司機関区に所属するEF81形です。現役で活躍を続けるのは15両と、比較的まとまった数が今なお走り続けています。といっても、これを国鉄から継承した車両に限定すると、その数は7両までに減ってしまいます。残りの8両は民営化後に製造されたリピートオーダー機で、外観や搭載機器などはほぼ同じですが、やはり貨物列車に特化した仕様となっています。特に、運転台の助士席側に装備された冷房装置は大きな特徴です。

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▲新製間もない450番台451号機。民営化後のリピートオーダー機で、乗務員の執務環境改善のために冷房装置を装備している。前面の意匠も変更され、前灯は尾灯と一緒のケースに収められ腰部に移されたので印象が異なる。(撮影筆者、門司機関区にて許可を得て撮影)

 この国鉄から継承した7両のEF81形のうち、ただでさえ4両しか製造されなかった300番台は徐々にその数を減らし、ついには303号機のたった1両となってしまいました。

 この300番台は「銀釜」と呼ばれるように、車体を普通鋼ではなくステンレス鋼でつくられたのが大きな特徴です。ですから、塗装などされることなく、ステンレス鋼独特の銀色に車体が輝いています。
 国鉄の車両で車体をステンレス鋼でつくるのは非常に珍しいこと。1960年代に153系電車やキハ35系気動車ステンレス車体の車両を製造しました。ですが、これはあくまで試験的なもの。ステンレス鋼は普通鋼に比べて製造コストが高く、加工が難しいため量産は見送られました。
 それでも、あえてステンレス鋼の車体でなければならない国鉄線がありました。
 それが、山陽本線の下関-門司間にある関門トンネルです。
 関門トンネルは日本で最初につくられた海底トンネルで、完成はなんと1937年でした。第二次世界大戦前に約3.6kmにも及ぶ長さの海底トンネルを造る技術があったことは驚きです。
 ところが、この関門トンネルは海底トンネルの性なのか、海底より上の海水圧と、それに圧力を受ける海底の土壌がさらに圧力を増し、トンネル内には常に地下水が湧き出てきます。
 その湧き水、ただの地下水ならそれほど問題にはならないのでしょうが、何しろ海底トンネルなので湧き水には大量の塩分が含まれています。そのために、塩分を含んだ湧き水が車体に降りかかると、電食の影響もあって車体をたちまち腐食させてしまうのです。

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▲EF10形を関門仕様にした35号機。車体は旧型電機標準色のぶどう色2号で塗装されているが、車体の材質はステンレス鋼となった。窓枠がその特徴を僅かに伝えている。(九州鉄道記念館にて保存)

 戦前から関門トンネルで運用されていたEF10形電機機関車も、車体をステンレス鋼で製造した車両がありました。やはり、この海水対策のために、工作が難しいのにもかかわらず、あえて腐食に強いステンレス鋼にしたそうです。
 そして戦後になって九州島内が交流電化に決まると、交直流両用機関車としてEF30形が開発されます。こちらも前任のEF10形に倣い、車体はステンレス鋼でした。九州の玄関口である門司には、異色ともいえる銀色に輝く機関車たちが集まっていました。

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▲九州島内の交流電化により開発された交直流両用機EF30形。前任のEF10形に続いて関門仕様の特徴であるステンレス鋼の車体となった。(碓氷峠鉄道文化むらにて保存)

 もっとも、このステンレスに輝く機関車は、専ら関門トンネル用だったので、他に転出などすることもなく、関門トンネルを抜ける列車には必ずこの銀釜が先頭に立ち、下関-門司間の僅か6.3kmという短い距離を行ったり来たりしていました。当時は普通列車といえども客車列車が多く、当然ですがそれを牽くのは機関車の役割でした。貨物列車は少し距離が長くなりますが、幡生-門司間で重量の関係から重連で牽いています。
 やがて列車の増発などにより、このEF30形を補強する形で登場したのがEF81形300番台です。性能はEF30形とは大きく異なります。それもそうでしょう、そもそもEF81形は関西-北陸-東北を結ぶ日本海縦貫線での運用を前提に開発された機関車です。その機関車をもとに車体をステンレス鋼にした関門トンネル仕様として登場したのが300番台ですから当たり前のはなしです。
 しかし、門司機関区に配置されてからは、EF30形とは異なり下関-門司間を行ったり来たりする運用に終始しました。これは貨物列車を牽くには重連でなければならないので、そのための重連総括制御装置をEF81形は備えていませんでした。そのため、同じ門司に配置されている機関車の中でも、旅客列車専門だったので、寝台特急の先頭に立つなど花形運用も存在していました。
 こうして、その特殊な仕様で門司機関区から門外不出といえば大げさかも知れませんが、よほどのことがない限り他への転出はあり得ないと思っていました。
 ところが、国鉄の終わり頃に301号機と302号機が常磐線の内郷機関区へ転出、銀色に輝くステンレス車体を、交直流両用の標準色であるローズピンクに塗り替えられてしまったのです。これを見た時には、ある意味大きなショックを受けました。生涯を関門トンネルを行ったり来たりする地味な運用を運命づけられていたに見えた機関車は、あろうことか首都圏に顔を出すことになったのでした。

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▲増加する運用に対応するためにEF30形の増備としてEF81形の関門仕様で製造された300番台。このうち301号機と302号機は常磐線へ配置転換され、他の交直流機と同じローズピンクに塗られた。分割民営化直前に古巣である門司に戻り、後に貨物会社に継承されたがローズピンク塗装はそのままとなった。(筆者撮影、門司機関区にて許可を得て撮影)

 これは常磐線で使われてきたEF80形機関車の置換が目的でした。先ほどもお話ししましたように、日本海縦貫線という1300kmに及ぶ長距離運用もこなすことができる性能をもっているので、僅か7km弱という短い距離だけでの運用ではもったいない。老朽化するEF80形を置き換えるには新しい機関車をつくりたいが当時の国鉄はお金がない。そこで、この2両に白羽の矢が立ったのでしょう、とにかく長く住み慣れたねぐらを去って首都圏へとやって来ました。
 ところが、これも長くは続きませんでした。
 貨物列車の大幅削減で活躍の場は減少し、国鉄の分割民営化が決定的になる直前、301号機と302号機の2両は再び門司へと戻されます。これでローズピンク塗装も剥がされると思いきや、門司に戻ってもローズピンク塗装はそのままでした。
 その後、分割民営化で門司機関区がJR貨物に継承されると、300番台の4両もJR貨物に継承され、重連総括制御装置も装備して他の400番台や後から製造された450番台とともに、幡生操-門司間で貨物列車を牽き続けます。長距離を重量のある貨物列車を牽く性能を持ち合わせていながらも、この短い区間だけではある意味もったいない気もしましたが、国鉄以来の運用形態を崩すことなく守り続けていました。
 この後、しばらく大きな動きはなかったのですが、ついに後継としてEH500形が門司に配置されると、関門トンネルはEF81形の牙城ともいえなくなりました。続々配備されてくるEH500形は、あっという間にEF81形の仕事を奪っていきました。
 関門トンネルを通過する貨物列車は、EF81形だと重連で牽く必要があるのを、EH500形は単機で十分です。貨物会社は旅客会社に対して1両単位で線路使用料を支払っているので、重連では2両分を支払わなくてはなりません。EH500形なら1両分で済むので、コストを減らしたいと考えれば早々に重連運用ををなくしたいのは当然です。
 そのような時代の流れの中で、走行距離こそ少ないものの塩分を多分に含んだ湧き水を常に被るという他にはない過酷な運用をし続けたためか、門司配置のEF81形も老朽化が進んでいきます。特に普通鋼製の基本番台を改造した400番台は傷みが激しかったのでしょう、EH500形に関門トンネルの任を譲ると早々に廃車が進んでいきます。2018年現在で、門司に残る400番台はたった3両だけになりました。

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門司駅構内で入換中のEF81形4重連。この後、幡生操へ向けて単機回送列車となった。先頭から400番台、2両目は300番台ローズピンク塗装、3両目は450番台、最後尾の4両目に300番台ステンレス地と「揃い踏み」の編成。先頭の407号機の前面下部中央は、多量の塩分を含む湧水を被ったため僅かに錆が見られ、関門トンネル内部の過酷な環境を物語っている。この407号機は既に廃車解体されてしまっている。(筆者撮影)

 車体をステンレス鋼にし関門仕様にした300番台も、寄る年波には勝てずローズピンク塗装の301号機、302号機、そして無塗装で銀色のままの304号機が既に廃車。303号機だけが残り続けています。
 もちろん、303号機とて安泰とはいえません。
 新製以来、東日本大震災に関連した復興支援輸送時に富山に貸し出された時期を除いて、ずっと門司を住処として関門トンネルを走り続けてきました。塩分を多く含んだ湧水を被ることが避けられないため、ある意味では非常に過酷な仕事でありながらも、黙々とその任をこなし続け多くの旅客や貨物を運び、本州と九州の橋渡しをする重要な役割をこなしてきました。その役割はけして目立つものではないかも知れません。しかし、結節点で走り続けたということ、旅客の往来や物流の面から見ても、この銀釜こと300番台の存在は一言では言い表せないほどなくてはならないものだったといえるでしょう。
 関門での運用を後継に譲った後、2018年現在では他のEF81形とともに、門司-福岡貨物ターミナル間で貨物列車を牽く仕事を得ました。門司での盟友とでもいえるでしょう赤い交流機ED76形の一部が去った後、その仕事を引き継ぎました。

 

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 関門間とは異なり、比較的長い距離(といっても100kmほどしかないが)を高速で駆け抜けていくのは、EF81形が本来持っていた走行性能に見合ったものかも知れません。ある意味、最後の力を振り絞るかのようにノビノビと、そして持てる力をいかんなく発揮しているようにも思えます。
 客車列車、とりわけ花形である寝台特急も牽くことを生業にしながら、6.3kmという非常に短い距離を、過酷な環境の海底トンネルを走る橋渡しとして運命づけられた銀釜300番台。時に、その性能を買われて首都圏へを赴いたのもあれば、そのまま関門に残り続けてじっと同じ仕事を続けたものありました。
 再び4機が揃うと、花形の仕事を失い重連で貨物列車を牽くことになっても、やはり橋渡しとしての重要な任務には変わりはありませんでした。目立つことはなくても、他の機関車にはできない仕事をし続けたことは特筆に値するでしょう。
 新製当初から運命づけられたかのように門司を終の棲家としていった兄弟である3両を見送った303号機は、関門トンネルがいかに過酷な環境だったかをその車体で今に伝えているそのようにも感じます。

 

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