旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

昭和から平成へ 激動の時代を見続けてきたロマンスカー【前編】

 いつかは乗ってみたい、そう思った列車もなかなか機会に恵まれずに、気がついたらもう引退直前になっていた、ということは多々あります。まあ、思っていてもなかなか行動に移すことができる時間がとれなかったというのも、理由の一つかも知れません。
 小田急ロマンスカーもどちらかといえば、その一つでした。小田急線になかなか縁がないのか、利用する機会もあまりなく、一時期は小田急線沿線の大学に行ったり勤務したりもしましたが、ロマンスカーを使うまでもない距離だったのもあるかも知れません。

私鉄とJR(その昔は国鉄)が競合し、少しでも多くの乗客を獲得しようと互いに切磋琢磨している路線は数多くあります。特に関西はその傾向が強いようで、京都-大阪間はJRだけではなく、私鉄同士も熾烈な争いを今も繰り広げてるようです。
 首都圏も同じようなもので、都心と観光地を結ぶ路線は所要時間はもちろんですが、車両などのサービス面でも熾烈な争いを繰り広げた歴史がありました。例えば日本を代表する観光地の一つでもある日光は、国鉄が準急「日光」を走らせると、並行する東武鉄道も特急を走らせて対抗していました。
 関東南部の観光地といえば箱根・伊豆ではないでしょうか。箱根・伊豆を巡っては小田急電鉄西武鉄道が観光開発で真っ向から争った「箱根戦争」がよく知られるところだと思いますが、この地域への旅客輸送では小田急国鉄が争っていたといっていいでしょう。
 その小田急電鉄といえば、やはりロマンスカーを抜きにしては語ることができません。第2次世界大戦後、いわゆる「大東急」から分離独立した小田急電鉄は、さっそく箱根方面の観光輸送を再開させます。1948年から運転が開始された「週末特急」は、通勤用車両の一部の扉を締切にし、座席に白いカバーを掛けて灰皿を設置した程度でしたが、終戦直後の混乱期で物資の少ない時代を考えると、こうした精一杯のサービスでありながらとにかく特急を走らせようとした当時の社員の方々の苦労が窺われます。
 こうしてロマンスカーのルーツとなった特急列車は運転が始められ、やがて専用車両が製造されます。高度経済成長期の1957年には外観、性能ともに画期的な3000形電車が製造・投入されます。そして小田急ロマンスカーの象徴ともいえる展望席を備えた3100形が1963年に登場。車内の内装も豪華に、観光地・箱根への旅客輸送を担いました。

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▲「昭和」時代に製造された小田急ロマンスカー三態。左から3000形、3100形、7000形。3100形からはロマンスカーのシンボルとも言える展望室が備えられた。(©Lover of Romance Wikimediaより)

 その3100形のDNAを継承しながらも、さらにスタイリッシュなデザインとした7000形が1980年に登場しました。
 7000形の特徴はやはり3100形譲りの展望席と3000形以来の1両あたりの長さを短くし、代わりに連接台車を装備した連接車であるといえるでしょう。細かいところでは、先代の3100形や3000形は乗客用の側扉が手動式(これ自体、驚きましたが)だったのに対して7000形は自動式の折り戸にし、愛称の表示もアクリル板の交換式だったのを自動幕式にしたことなど、1980年代では当たり前とされていた設備を装備していました。
 もちろん、車内は特急列車として恥じないもの。先代3100形が回転クロスシートだったが、7000形では回転式リクライニングシートにして居住性が向上した。
 この当時、競合する国鉄は特急「あまぎ」と急行「伊豆」。「あまぎ」は183系電車で運転されていましたが、こちらは簡易リクライニングシートと呼ばれる座席で、体重をかければリクライニングするというものでした。「伊豆」は急行列車だったので、153系電車を使用しこちらは固定座席のボックスシートでした。
 この三者を比べても、やはり7000形は一つ上の接客設備を備えていました。
 こうして、都心とリゾート地を結ぶ小田急の観光輸送の主役として走り始め、新宿と箱根湯本の間を先輩である3100形らとともに30分間隔で約1時間30分で結び、先頭車の展望席と相俟って人気のある列車となりました。

【中編】につづく