旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 別れ別れになった兄弟たち【4】

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 そんな高速で重量のある貨物列車を牽くことを至上命題に誕生したEF66形に大きな転機が訪れます。
 貨物列車としての花形の仕事が次々に失われていた1985年、あろうことか東京-九州間の寝台特急の先頭に立つという仕事が舞い込んできました。これには私も驚きましたが、一番驚いたのは当の機関車たちだったのではないでしょうか。
 それまで東京-九州間の寝台特急列車は、先輩であるEF65形の仕事でした。そのEF65形からEF66形への変更は、列車にたった1両の客車を増結することになったためで、EF65形ではパワーが不足してしまうということが理由でした。
 分割民営化も現実的になってきたこの時期に、たった1両の増結ということのために、先輩であるEF65形から花形の仕事を受け継ぐことになったEF66形は、文字通り土壇場で表舞台に躍り出ることになります。
 もちろん、本来の仕事である貨物列車を牽く仕事も続いていました。
 EF66形が寝台特急列車を牽くことになった1985年からは、大量生産された汎用性の高いコンテナ車であるコキ50000形を改造し、1200トンの重量列車を100km/hで運転する列車「スーパーライナー」が設定されました。もちろん、その先頭に立つのはEF66形でした。しかも、貨物列車にもかかわらず、先頭に立つEF66形には、寝台特急列車と同様にヘッドマークまで掲げての仕事。24両編成という旅客列車にはない長大編成の先頭に立ち、しかもヘットマークを掲げての仕事は、先輩格の機関車たちとは一線を画する性能とデザインをもつEF66形にうってつけのものでした。

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 そんな明るいことばかりではありませんでした。1986年には翌年に迫った分割民営化を睨んで、1号機から39号機、それに試作機だった901号機が生家ともいえる下関や、二つ目の住処となった広島から大阪の吹田機関区へと異動します。残りの40号機から55号機の15両はそのまま下関に残りますが、実はこれが55両の兄弟たちのその後の運命を決定づけることになりました。
 翌年の1987年には国鉄は分割民営化されます。
 40号機以降の15両の弟たちが住処としていた下関運転所はJR西日本に引き継がれ、長兄である901号機や1号機から39号機の合計40両が新たな住処にした吹田機関区はJR貨物に引き継がれました。55両の兄弟たちは、たった1日で所属する会社を別けられてしまったのでした。
 しかも、他の機関車にはないこととして、下関に残った15両は引き続き花形の寝台特急列車を牽く仕事を続けますが、長兄901号機をはじめとした吹田に異動した40両は寝台特急列車の先頭に立つことはこれ以後はなく、スーパーライナーをはじめとした重量のある高速貨物列車を牽く仕事をこなすことになります。
 同じ目的の下に造られたにもかかわらず、所属する会社が異なるという理由だけでこうも仕事が異なるとは、誰もが考え得なかったことではないでしょうか。
 走行中にEF66同士がすれ違う時、方や24両編成という長さでしかも重量の嵩む貨物列車を、もう方や鮮やかなブルーの車体を煌めかせた寝台特急列車を牽いているという大きな違いに、機関車はもちろんですがそれを運転する機関士や整備をする車両係の人たちも、もしかすると思うものがあったかも知れません。
 どちらも長距離を走破するという点に置いては過酷な仕事かもしれませんが、貨物列車は旅客列車の日にならないくらい重量があり、それを高速で牽く機関車の負担も大きいものです。
 当然、貨物会社に所属することになった車両の老朽化も、旅客会社に所属する車両よりも進み具合は早くなってしまいます。加えて、分割民営化後は景気もよく、鉄道貨物の需要は増える一方でした。