旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 数奇な運命を辿った急行形【3】

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 1968年のダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正では、数多くあった急行列車の愛称が整理されるとともに、それまで走っていた準急列車が急行列車へ統合されていきます。急行列車自体は増発にも見えますが、一方で一部の急行列車は特急列車へと格上げされていきました。


前回までは 

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f:id:norichika583:20180517094242j:plain▲1960年代の急行列車は長大な編成を組んで、旺盛な長距離旅行客の需要に応えた。また、当時の急行列車は長時間をかけて走るため、軽食や飲料を提供することができる半室食堂車であるビュッフェ車も連結していた。写真は急行「まつしま」で12両編成を組んでいる。(©vvvf1025 Wikimediaより)

 これは、特急ないし急行列車へ格上げすることで、特急券急行券での料金収入を上げようと国鉄が目論んだこともあるでしょうが、特急列車を特別な存在ではなく、それまで庶民が利用していた急行列車に近い存在にしようとしたこともあったようです。
 もちろん、結果として急行利用客が特急列車へ移転することで料金収入を上げることが可能になるので、そのあたりは財政事情が火の車になりつつあった国鉄の施策だったといえるでしょう。とはいえ、交直流両用の急行形電車にとって、この時期はとにかく休む間もなく走り続けた時代だったということは間違いありません。
 このように、定期列車ばかりではなく臨時列車も多数走っていた1960年代半は、まさに急行列車にとっても黄金期でしたが、それも長くは続きませんでした。
 交直流両用の急行形電車の登場が最後発だった九州で、早くも大きな動きを見せることになります。
 もともと九州内の電化は本州と比べて遅かったことや、475系電車が山陽・九州間の急行列車で使われ出した頃は既に東海道新幹線が開業しただったので、いずれは新幹線に活躍の場を奪われていくことは分かっていました。
 1967年には急行「有明」が九州内に新設される特急列車へと転じて、列車名を「しらぬい」と変更。「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正で「はやとも」は「玄海」へと改称し、広島-博多駅間の急行列車を「はやとも」とし、季節列車として新大阪-大分間の急行「べっぷ」が新たに設定されました。いずれも、かなりの長距離運転であることには変わりありません。

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 1972年に山陽新幹線が岡山開業を迎えると、当然、並行在来線の大幅なダイヤ改正が行われました。新大阪-岡山間の特急・急行列車は整理の対象になり、この区間優等列車は大幅に削減されます。加えて、岡山以西の優等列車は新幹線からの接続列車としての役割をもつことになりました。急行「玄海」は名古屋発着ではなく岡山発着へと短縮され、「しらぬい」は「玄海」に統合されて廃止になります。「べっぷ」は一部を定期列車に格上げし、「つくし」と併結とし赤穂線経由になりました。運転距離が短くなった分だけ運用に余裕ができ、その分を他の列車の増発分に宛てた形となりました。他にも九州内の急行「日向」など、まだまだ活躍の場は与えられており、さらに急行形電車の本来の性能を発揮する長距離列車が中心だったのは救いであったと思います。
 しかし、1975年の新幹線全線開業でその様相は一変します。関西・山陽と九州を結んできた長距離の急行列車はほぼすべてが廃止になり、残る仕事といえば九州内の列車に限られてしまいました。475系電車が南福岡を住処にして活動を始めてから僅か10年で、その持ち前の性能と設備を発揮できる運用を失ったことになります。しかもこのダイヤ改正では、特急「有明」の運転本数を大幅に増やし、九州内の急行列車も大幅に減らされてしまいました。

f:id:norichika583:20180517095042j:plain東海道新幹線の開業は、国鉄の長距離輸送の形態を劇的に変化させた。既に在来線の特急列車は庶民にも手が届く存在になりつつあり、急行列車の乗客はそちらへ移転していたが、新幹線の延伸とともに急行列車は削減されていくことになる。

 残る仕事といえば昼行の「かいもん」「ぎんなん」といった列車でしたが、それでも長くは続きませんでした。1980年には九州内の昼行の急行列車はほとんどが特急に格上げされ「有明」や「にちりん」に統合されてしまいます。残った仕事といえば九州北部と日豊線の大分や宮崎を結ぶ「ゆのか」と「日南」だけになり、前者が4往復、後者は1往復だけになりました。そして、1982年にはすべて特急「にちりん」へ格上げとなってしまい、九州の475系電車をはじめとする急行形電車は、ついに本来の仕事を失ってしまいました。

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 九州の急行列車が新幹線開業の波とともに衰退の一途を辿っていた頃、東北の急行列車は健在でした。とはいえ、既に東北新幹線の建設も決まっていたので、いずれは整理と統合、そして廃止の運命を免れるものではありませんでした。
 ダイヤ改正ごとに東北の特急列車は増発や新設される一方、急行列車は名称の整理と統合を繰り返していくことになります。451系電車の登場時は様々な名称の列車が走っていましたが、1968年のダイヤ改正では上野-仙台間の急行列車を「みやぎの」から「まつしま」へと統合するなどしています。

*1:イカロス出版 国鉄形車両の系譜6・形式455系より抜粋

*2:イカロス出版 国鉄形車両の系譜6・形式455系より抜粋