旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【9】

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増え続ける冷房車、追われる非冷房車

 冷房装置も標準装備となり、様々な改良を加えられた103系電車はその後も量産が続きました。

 同じ頃、首都圏や京阪神の周辺部の通勤路線では、大先輩でもある旧型電車の72系電車がまだまだ現役でした。現役といっても、最も古い車両は戦時中に誕生しているので、激しい混雑と高頻度の運転という過酷な仕事は、ただでさえ高速で走ることが難しいのを、文字通り老骨に鞭を打っての活躍でした。


前回までは 

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  とはいえ、いつまでも老兵を働かせ続けるわけにもいきません。老朽化が進行している72系電車は、いつ故障を起こしてしまうかもわかりませんし、中心部を走る電車は冷房化も進められてサービス面でも改善しているのに、ちょっとだけ離れた路線が古びた電車というわけにもいかないでしょう。

 国鉄は次々と量産される103系電車の冷房装備車を、山手線や京浜東北線京阪神緩行線といったメインとなる路線に配置させてサービス改善をしながら、それまで走り続けていた冷房のない103系電車を捻出して、他の路線へ異動することで残っていた72系電車を引退させていきます。
 こうして冷房装備の103系電車に押し出されるようにほかの路線へと転じた非冷房車の103系電車は、首都圏や関西圏の各路線へと散らばっていき、新たな活躍の場を得ます。とはいえ、やはり冷房がないのは如何ともし難いものがありましたが、それまでの72系電車から比べれば乗り心地もよく、そしてスピードアップなど改善ができました。

 1972年から横浜線でも活躍をはじめますが、やって来たのは京浜東北線で走っていた冷房のない初期の車両たちでした。京浜東北線に新しく造られた冷房付きの車両が配置されたことで、押し出された車両たちが横浜線にやってきたのです。

 

f:id:norichika583:20180713173224j:plain▲中央線快速で103系電車が活躍した期間は意外に短い。1973年に配置され、先輩である101系電車とともに走り続けた者の、1982年までには電機子チョッパ制御という新機軸を装備した省エネ電車の201系電車に仕事を譲っていった。(©DAJF Wikimediaより)

 

 1973年にはオレンジバーミリオンを身に纏って中央快速線に配置されます。中央快速線は既に101系電車が旧型電車を置き換えていましたが、今度は101系電車を押し出すためにやってきました。押し出された101系電車は総武中央緩行線へと異動していきます。いわば、先輩格でも旧型ではない、新性能電車と呼ばれる車両すらも押し出してしまうことになります。

 同じようなことは首都圏だけではなく、京阪神でも行われました。京阪神緩行線大阪環状線といった主要路線に冷房付きの新車を配置、押し出された初期の車両たちは101系電車が活躍していた片町線などへ異動させ、さらに押し出された101系電車は他の路線へと転じていきます。
 この後も続々と冷房装備の新車が都心部で混雑の激しい路線へ配置され、冷房化率の向上とサービス改善に貢献する傍ら、押し出された冷房のない車両たちは周辺部の路線へ進出を続け、首都圏では青梅線五日市線成田線へと進出。さらに1980年代に入り、「首都圏国電の墓場」と揶揄された南武線にも冷房化の促進を目的に配置されました。