国鉄
西伊豆の玄関口である沼津には、三島から修善寺へ向かう駿豆鉄道が開通し、1933年には東京から修善寺直通の列車も運転された。1934年の丹那トンネル開通により東海道本線は海岸ルートへ移り、準急列車も沼津まで延長され伊豆観光はさらに発展した。しかし日…
伊豆半島は山が海岸近くまで迫る険しい地形のため、東西移動が難しく交通の便が悪かった。特に南伊豆では鉄道開通が長年の悲願だった。東海道本線は丹那山の難工事を避け御殿場経由で開業したが、1920年に国府津―熱海間が開通し、熱海が伊豆の玄関口に。1928…
年度末はどの仕事も忙しく、鉄道マン時代の筆者も年末の繁忙期やダイヤ改正準備で慌ただしい日々を過ごしてきた。疲れを癒やすには温泉が恋しくなるが、近年の箱根は外国人観光客で混雑と高騰が進むため、落ち着いて過ごせる伊豆の温泉地に惹かれるようにな…
国鉄分割民営化により、橋桁設置用の超重量級操重車ソ300形は扱いが課題となり、2両ともJR東日本に継承された。田町電車区に配置されつつ神奈川工事区が運用を担い、しばらくは活用されたが、運用の煩雑さと保線機械の進歩により次第に出番を失う。製造から4…
ソ300形は1966年に日立製作所で2両が製造され、橋桁設置を担う操重車として東京第二工事局三島操機区に配置された。工事局は国鉄の大規模工事を担当する専門組織で、三島は新幹線建設の拠点として重要な位置にあった。ソ300形は橋梁・高架工事で活用され、出…
3:ソ300形とは? 35トン吊り水平ブームと16軸台車を備えた国鉄最強の橋梁工事用操重車 《前回からのつづき》 ソ300形は軌道内で作業をすることが前提の、橋梁建築用の操重車であるので、建築用クレーンのようなブームを引き起こす事はできません。そのよう…
ソ300形は1966年に日立製作所が製造した、橋桁設置用の国鉄最大級の操重車である。ソ200形では対応できない重量級橋桁に対応するため、35トン吊りの強力な水平ブームと、154トンの車体を支える16軸の特殊台車を採用。自走機能も備え、橋桁を吊ったまま現場へ…
元国鉄マンの教育者が綴る鉄道回想録。小学生時代、市立図書館で読み耽った「国鉄車両ガイドブック」を手に、新鶴見操車場で実機を観察した日々を振り返ります。奥多摩と川崎を結んだ石灰石輸送の主役・ホキ2500形や、16軸の巨体を誇り自走も可能だった特殊…
15:おわりに 《前回からのつづき》 急行「銀河」が歩んだ59年は、日本の鉄道史の中でも特別な意味をもつ時間だったと思います。戦前の名士列車を源流とし、戦後の混乱期から高度経済成長、国鉄末期、そしてJR時代へと、常にその時代の“夜の移動”を支え続け…
1990年代以降、高速バスの低価格化や航空運賃の自由化、新幹線「のぞみ」の高速化により、夜行列車の利用は急減した。寝台特急の統廃合が進む中、「銀河」も編成縮小を重ね、2008年に廃止された。戦前の名士列車17・18列車を源流とし、戦後の復興期から高度…
DE10 1691〔函〕 五稜郭 2006年8月6日 筆者撮影 DE10形といえば、国鉄時代は全国至る所で見ることができた、万能ディーゼル機だったといえます。北は北海道、南は鹿児島まで全国に配置され、その製造数は708両にも上り、国鉄のディーゼル機としては最大でも…
1986年、国鉄最後のダイヤ改正で「銀河」は14系から24系25形へ置換えられ、三段式から二段式寝台へ移行して居住性が向上した。しかし目的は設備改善だけでなく、翌年の国鉄分割民営化に向けた運用・配置の再編が主因で、品川客車区から宮原客車区への担当移…
1985年、「銀河」は老朽化した20系から14系へ置換えられ、寝台幅が拡大して居住性が向上した。同年のつくば科学万博では大量輸送が必要となり、国鉄は常磐線の交流区間や地磁気観測所の制約で直流車を使えず、交直流車や気動車、583系、さらには12系・20系客…
1985年、「銀河」は老朽化した20系から14系へ置換えられ、寝台幅が広がり居住性が向上した。同年のつくば科学万博では大量輸送が必要となり、国鉄は全国から車両をかき集め、583系や気動車まで常磐線の臨時列車に投入した。背景には波動用車両の廃車進行や財…
1966年、急行「銀河」の二等寝台車は10系オハネ17形から、戦後改造のスハネ30形へ置き換えられた。10系の製造が追いつかず、旧型客車を改造して需要を補ったためである。三段式寝台は狭く居住性は低かったが、当時の体格や運賃事情から許容されていた。1968…
1960年代に入り国民所得が向上すると、夜行列車では座席より寝台を求める利用者が急増し、1961年に「銀河」は座席車を廃止して全車寝台化された。一等寝台に加え、ナハネ10・11形など10系二等寝台車が主体となり、名実ともに寝台急行へ進化。1964年にはビュ…
1953年の二等級制移行により、従来の一等・二等・三等は再編され、車両記号も「ロ」「ハ」へ統一された。1955年には軽量客車10系が「銀河」に投入され、翌1956年には旧三等に相当する二等寝台車ナハネ10形が登場し、庶民も利用できる夜行寝台が実現した。ナ…
2026年3月、久留里線の久留里〜上総亀山間が廃止される。沿線人口の減少や利用者の極端な少なさに加え、コロナ禍で鉄道利用が激減し、JR東日本は赤字路線の維持が困難となった。地域輸送の責務と企業経営の狭間で揺れる中、末端区間の廃止は避けられない決断…
950年、スハ43系の登場により「銀河」の三等車は新製鋼製車へ置き換えられ、二等車にはGHQの指示でリクライニングシートを備えたスロ60形が投入された。列車番号は13・14列車となり運転区間は神戸まで延長。1951年には二等寝台車がスロネ30形に更新され、195…
2014年、筆者は久留里線沿線の史跡・久留里城を訪れ、山城から望む房総の自然と静けさに触れた。上総亀山駅周辺には亀山湖や温泉があり、列車からは見えない豊かな景観が広がる。久留里街道沿いには城下町の面影が残り、久留里線の路線名も久留里藩に由来す…
2014年、筆者は久留里線沿線の史跡である久留里城を訪れ、城下町として栄えた久留里の歴史に触れた。久留里城は久留里藩の藩庁として機能した山城で、現在は復元天守や整備された遊歩道が残る。久留里街道沿いには古い商家が並び、久留里線の路線名もこの城…
1949年に「銀河」として運転を開始した第15・16列車は、一等寝台と二等座席のみの編成で、急行としては異例の“上等車だけの夜行列車”だった。しかし庶民が利用できず批判が殺到し、わずか10日で三等座席車を含む13両編成へ変更。その後も寝台車の需要に応じ…
久留里線の終着・上総亀山駅は標高99mに位置し、房総の山あいに静かに佇む小駅。2012年のダイヤ改正でタブレット閉塞が廃止され無人化される前、駅では駅員が列車を迎えタブレットを受け取る光景が見られた。沿線の利用は少なく、キハ30・キハ38も老朽化が進…
久留里駅で最後のタブレットを受け取った列車は、房総山地へ向けて上り勾配を進む。平山・上総松丘を過ぎると車窓は深い山林へ変わり、トンネルを抜けると人家が点在するのみの静かな谷間に入る。冬の小櫃川を横目に走り続け、やがて終着・上総亀山駅へ到着…
戦前の東京―大阪間を走った急行17・18列車は、一等・二等のみで構成された“名士列車”だった。戦時中に運行は中止され、終戦後は車両の接収や混乱の中で旅客需要が急増。1947年に急行103・104列車として復活し、のちに列車番号変更を経て1949年に「銀河」と命…
久留里駅で最後のタブレットを受け取った列車は、房総山地へ向けて上り勾配を進む。平山・上総松丘を過ぎると車窓は深い山林へ変わり、トンネルを抜けると人家が点在するのみの静かな谷間に入る。冬の小櫃川を横目に走り続け、やがて終着・上総亀山駅へ到着…
戦前の日本では鉄道が長距離移動の中心で、特急は一等・二等中心の特別な存在だった。一方、庶民が利用できたのは三等車を多く連結した急行列車で、夜行移動も座席が主流だった。等級制や特急文化は、のちに急行「銀河」へとつながる夜行列車の基盤を形づく…
馬来田駅を出た久留里線は、下郡・小櫃・俵田と農地と集落を抜けながら房総丘陵へ向けて上り勾配を進む。途中には廃駅・上総山本の痕跡やC12形蒸気機関車の保存機があり、俵田駅では未舗装ホームが往時の姿を伝える。エンジンを唸らせながら勾配を登り、国道…
213系は国鉄が最後に設計した新系列で、財政破綻寸前の中でも新会社の負担軽減を目的に最新技術を導入して製造された“最後の国鉄形”だった。ステンレス車体やボルスタレス台車など私鉄並みの新技術を採用し、民営化後のJR各社の経営を支えた存在である。登場…
久留里線は東京近郊区間でありながらSuicaが使えず、タブレット閉塞方式が残る全国でも珍しいローカル線。祇園駅から東清川駅までの区間では、小櫃川や冬の田園風景が広がり、国鉄形キハ30の旅情を味わえる。乗車駅証明書による車内精算、無人駅の素朴な佇ま…