旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

新幹線のさらなる高速化とその必要性は?

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 先日、JR東日本から次期新幹線試験車両「ALFA-X」と名付けられたE956形の製作と、その試験内容などが発表された。

trafficnews.jp

toyokeizai.net

  技術は常に進化を続けている。鉄道もその点では同じだ。現在、東北新幹線で運転されているE5系E6系は、2005年に製作・試験が行われた「FASTECH360」の技術を基に開発され、今では営業運転における最高速度は320km/hに達している。
 東海道新幹線の開業当初は最高でも200km/hだったから、それから160km/hも速くなっている。本当に技術の進歩はすごい。おかげで、日帰りで出かけることができる範囲も広がり、ビジネスに、観光にと利用する機会は増えたと思う。

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2005年に製造し360km/h運転を目指して試験走行が行われた「FASTECH360」E954形。試験走行の結果は営業用のE5系に反映されたが、環境への影響などを考慮して実際の営業では320km/hに抑えられた。
©Jet-0 Wikipediaより

 しかし、「新幹線のスピードが上がる」ことは、はたして「本当にいいこと」なのだろうか。このニュースに接した時、少し考えてしまった。
 まず、JRが新幹線の速度を上げる理由だ。やはり、常に乗客の奪い合いを展開している航空機の存在だろう。新幹線の利便性を語る上で「4時間の壁」というものがある。新幹線で4時間以内であれば、利用者は新幹線を選択し、それ以上かかるのであれば航空機を選択するという統計的なものだ。
 確かに、新幹線で4時間以上をかけて移動するのは、現代社会では効率性に欠けるだろう。そうなると、利用者は自ずと短い時間で移動することを求めるので、航空機を選択することになる。
 その「4時間の壁」となる距離を、少しでも伸ばして航空機に対抗していこう、というのがJRの本音なのは、誰が見ても明らかだと思う。実際、東北新幹線E5系が投入され、最高運転速度が320km/hの「はやぶさ」の運転が開始されると、羽田と東北地方を結ぶ航空路は、たちまち新幹線に利用客を奪われてしまっている。航空会社も路線廃止とまではいかないものの、運航機材を縮小してなんとか維持はしているようだが、それでも利用者の落ち込みが見られる。
 その一つの例として、東京(羽田)-三沢線をあげると、就航当初はエアバスA300(最大354席)だった。それが、MD-80/90(同172席)へと小型化し、ついには70席級のエンブラエル170へと、運航機材を縮小している。それだけ利用者が低迷していることを窺い知ることができる。

 JRにとって、新幹線の最高運転速度を向上すれば、それだけお客さまを呼び込むことができ、利便性も上がったとして、さらなる増収が見込める。まして、40km/hも速度が上がりれば、その宣伝効果だけでも相当になる。民間会社だから、利益を追求するのは悪いことではない。というより、当たり前のことだ。
 しかし、安全面でいうとどうなのだろうか。
 そして、都市開発という観点でいうと、問題点はないのか。
 私はこの二つの疑問をもってしまった。

 安全面に関していえば、車両技術や保安技術の向上により、ある程度は確保できるだろう。そうでなければ、試験車両とはいえ、このような車両を開発するために巨額を投資する意味合いはない。むしろ、その見込みが立たないようであれば、高額な投資をして試験を行っても、大金を捨てるようなものだ。
 過去に、こうした試験車両を製造したあとには、必ず営業用車両の開発につなげて、列車の速度向上を実現してきている。そうでなければ、その費用を回収できないからだ。
 だが、そうした「目に見える」面では可能であっても、普段から「見えにくい」面ではどうだろうか。というのが、今回の疑問の一つだ。
 それは、鉄道で最も肝心な「線路」だ。
 新幹線は、その特殊なシステムの性格上、全線が高架線か盛り土の上に軌道が敷かれている。このうち、盛り土の部分は直接地面に軌道が敷かれているのでよしとして、問題は高架線の部分だと考える。
 高架線は、建築物の上に軌道を敷いているのは多くの方もご存知だと思う。その高架橋、経年とともに老朽化していくのは仕方がない。しかし、同じ列車が走るとして、その列車の重量や速度に比例して、老朽化が進行するスピードも上がっていくということだ。
 東北新幹線は、東海道新幹線に比べて新しいとはいっても、最も古いところである小山駅付近の建設が1984年だ。既に完成から33年が経過している。また、2011年には東日本大震災に見舞われ、補修や補強は施しているとはいえ、外部からの衝撃が加わった建築構造物は完成時に比べて強度は落ちていると考えられる。
 もちろん、JRもそのことは承知しているとは思うが、320km/hでも十分速いものを、360km/hに引き上げれば、当然、軌道や建築構造物にかかる負担は増えていくだろう。
 車両を軽量化すれば、その負担は少しでも少なくなるという方法もある。今日の鉄道車両は、非常に軽量であり、同時に堅牢なつくりになっている。世界的にみても優秀な技術をもっている。
 しかし、それにも限界がある。最も軽量なアルミニウム合金で車体を製造しても、強度を保つために、重量を抑えるのも限界というものがある。
 こうした点を考えると、鉄道として最も重要な基盤となる軌道やその構造物に対して、負担を強いる結果となることが十分に予想され、ひいては東北新幹線自体の「老朽化」を進ませかねないだろう。

 もう一つ、都市計画の点から見てみると、新幹線の運転速度が上がり、速達性が向上するということは、停車する駅が限られてくるということだ。例えば、東海道新幹線で最も速い「のぞみ」は、東京を出ると、品川、新横浜、名古屋、京都、新大阪に停車する。途中停車駅は、なんと4つだ。この間に多くの駅があるが、新幹線の恩恵にあずかっているといえる地域はどれくらいあるだろうか。
 しかも、速達列車を走らせれば走らせるほど、「こだま」のような各駅に停車する列車は削減されてしまう。実際に、2017年の東海道新幹線の時刻表を見ると、東京駅で最も発車本数の多い16時台で、18本の列車が発車しているが、そのうち「こだま」はたったの2本。多少、停車駅を多くした「ひかり」も2本で、残りはすべて「のぞみ」だ。
 東北新幹線は多少事情が異なる。東京駅に近い首都圏近郊の駅にはできるだけ停車する列車を確保した「やまびこ」や「なすの」の本数はある。もっとも遠くへ行く「はやぶさ」は、速達性を確保するために大宮、仙台、盛岡、新青森新函館北斗に停車する。
 長らく盛岡止まりにされ、民営化後に青森延伸の足場になった八戸ですら停車しない。すべてではないにしても、途中駅に停車する列車はごく限られた本数になってしまう。具体的な例を挙げるなら、七戸十和田駅は平日の日中、上りで2時間に1本しか停車しないという有様だ。

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 東北新幹線の速達列車「はやぶさ」に運用されるE5系。もっとも短い時間で東京と新函館北斗を結ぶ列車は、途中停車駅が少なく設定されている。
©Nanashinodensyaku Wikipediaより

 こうした駅の周辺は、はたして本当に発展するだろうか。
 残念ながら、私のもつ答えは「No」である。
 駅をつくった、鉄道が来た、だから町は発展する。新幹線が通るなら、駅をつくっ町を発展させよう、などという「我田引鉄」的な手法で、今日の日本で都市が発展することは見込めない。
 なぜなら、そこには人が生計を営むための「産業」が乏しいからだ。
 もちろん、今の東京一極集中から地方への分散を促すことや、あるいは働き方改革ではないが仕事のスタイルを変えるのであれば、こうした途中駅の町にも発展するチャンスは訪れるかも知れない。しかし、それは根本的な改革がなければ難しい話だ。
 そして、何よりもこうした駅の存在が、町から人口を流出させてしまう効果がある。いわゆる「ストロー効果」だ。
 新幹線があるから、3時間もすれば戻ってこれる。通勤に1時間から2時間なら、都市で仕事をするのに都合がいい。ということは、こうした駅から、それまで住んでいた人々が流出していく可能性をはらむということだろう。
 その意味でも、新幹線で町を興すどころか、逆に町を廃れさせるということになりかねない。実際、八戸市の人口*1は、2000年の248,608人から2015年には231,257人へと減少している。特に2005年の244,700人から、そのペースは早まっているようで、その間に東北新幹線八戸開業があったことを考えると、やはり新幹線が何らかの形で関与していると思われる。

 新幹線の運転速度が上がる。それ自体はいいことかも知れない。
 ただ、その恩恵にあずかれるのは、その列車が停車する駅とその地域、そして鉄道会社だけであり、その間の「停車しない駅」の住民にとってはどうでもいいどころか、もしかすると死活問題になるかもしれないだろう。
 鉄道を一つのインフラシステムと捉える時、列車の速度向上だけが一人歩きしたところで、それは単に技術のアピールにすぎない。公共の輸送機関であるということに立ち返った時、誰にとっても利用しやすく、沿線の発展に貢献できるビジョン、そして何よりもの安全性が求められる。
 そうした意味において、今回の次期新幹線試験車両の開発が、単に速度向上や居住性の向上だけをねらうものであってほしくない。もしそうであるなら、新幹線の速度向上は、あまりに意味のないものになってしまうだろう。

〈了〉