餘部橋梁事故は、国鉄の末期である1986年に山陰本線鎧駅-餘部駅間に架かる餘部橋梁を走行中の回送列車が強風にあおられて橋梁から転落し、橋の下にあった水産加工工場と民家を直撃して工場で働いていた従業員5名と回送列車に乗務していた車掌の計6名が死亡、工場の従業員3名と列車に乗務していた車内販売員3名の計6名が負傷する惨事を起こしてしまいました。
▲山陰本線に架かる餘部橋梁の旧橋。鋼製トレッスル橋で、橋の両側を山に囲まれた海岸に近いという地形のために強風に吹かれることが多く、事故後は運転見合わせになることがさらに多くなった。事故はこの橋梁を通過中の回送客車列車が強風にあおられ浮き上がり、橋梁下へと落下していった。(Wikimediaより引用)
事故の原因は餘部橋梁を基準値以上の突風が吹いていたにも関わらず、回送列車を運転させたことでした。当時、基準値以上の風が吹いていて、橋梁に設置された風速計が2回の警報音を出したために、1回目は香住駅に問い合わせて確認したところ、強風は吹いているものの基準値以下であることから列車の運転には支障はないと判断、加えてその時間帯には列車の運転がないことから様子見となりました。
ところが2回目の警報音が鳴ったときには、列車を停止させるための特殊発光信号機(踏切近くにも設置されている)を作動させても既に列車を止められないと判断したために、そのまま列車を突風の吹く餘部橋梁へ進入させ、その結果列車が転落する事故を起こしています。
私が注目したのは、
(1)風速計が1位回目の警報を出した時に、香住駅へ状況を問い合わせたが、香住駅は餘部橋梁から離れた位置にあり、香住駅での状況は参考程度にしかならなかったこと。
(2)香住駅では基準値以下とはいえ、風速20m/sの強風が出ていた。指令は強風が吹いていたことは把握していたが、列車の運転がないことを理由に餘部橋梁区間の運転抑止の措置をとらず様子見と判断したこと。
(3)2回目の警報が鳴ったときに、特殊発光信号機を作動させても列車を止めることはできないと判断し、必要な措置を講じなかったこと。
の3点です。
この中で最も重要なのは(2)と(3)で、列車の運転がなから様子見とした判断と、信号機を作動させても間に合わないからそのままにしたという判断です。
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1回目の警報音が鳴ったときに餘部橋梁区間を運転抑止としていれば、回送列車の進入を防ぐことができた可能性があります。また、2回目の警報音が鳴り信号機の作動させても間に合わなかったとしても、列車無線を使って運転の中止を指令することができた可能性もあります。事故が発生したのは1986年12月なので、既にこの頃には列車無線の全国整備を終えていると考えられるので、こうした対応は可能だったと考えるのが妥当だと思われます。
いずれにしても、この事故では二度も事故を防ぐチャンスがありながら、指令員の不適切な判断と安全を最優先させる処置を行わなかったことで、6名もの、それも列車の運転に直接関係のない5名の主婦が犠牲になる事故を起こしてしまいました。