旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 数奇な運命を辿った急行形【5】

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 451・471系電車を始祖とする交直流両用の急行形電車は、1961年に登場以来、24年でその役目を失ったことになります。他方、特急用として登場した481系電車を始祖とする交直流両用の特急形電車は、時代が変わっても特急列車として走り続けるその役割は変わらず、言葉が悪いのを承知でいえば急行形電車の仕事を奪いながらも1987年の民営化以後も特急列車として活動し続け、最終的には2015年まで特急列車としての地位を保ち続けてきたのとは対照的でした。

f:id:norichika583:20180517094730j:plain485系ファミリーは電装品などの基本構造は455系ファミリーとほぼ同じで、直流・交流を問わず電化区間であれば全国どこでも走ることができた。急行列車の特急格上げとともに485系ファミリーは活躍の場を延ばしていく反面、455系ファミリーの仕事を失わせていくことになる。北陸線の特急「雷鳥」もまた、急行「立山」の運用を吸収していき、やがて「立山」という列車を全廃に追い込んだ。(©spaceaero2 Wikimediaより)


前回までは 

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 ところで、これら交直流両用の急行電車で運転された列車は、その多くが長距離運転をしていたことはこれまで述べてきたとおりです。実際、どのくらい長かったのかと調べてみると、もはや今日の常識では計り知れないものでした。
 例えば、1965年から電車化だれた急行「はやとも」は、名古屋-博多間を結んでいました。その距離はざっと808.9kmという長さで、なんとも気の遠くなるような距離です。始発の名古屋駅を10時ちょうどに発車して、終着の博多駅にはなんと23時13分着で、その所要時間は13時間13分もかかりました。午前中に出発して、終着は深夜とは想像を絶するもので、この当時の長距離旅行の苦労が窺えます。
 大阪発大分行きの「べっぷ」もまた長距離を駆け抜ける列車で、大阪発は8時42分、大分の到着は19時26分と11時間44分でした。朝出て、大分に着いた頃には外は真っ暗、とりあえず旅館に直行といった具合の旅になるでしょう。
 東北方面や北陸線の列車はこれよりも少しよかったようでした。上野-盛岡を結んだ「いわて」が東北方面では最も長い距離を走った列車でしたが、535kmを8時間10分で結んでいました。北陸線でも大阪-富山間を走った「立山」は314.6kmあり5時間4分をかけて結んでいました。今日では特急「サンダーバード」と北陸新幹線を乗り継いでも最速で約3時間もあれば大阪-富山間を行くことができるので、この時代の旅行の苦労が窺われます。
 旅行の苦労といえば、これだけ時間をかけて気の遠くなるような長い距離を走る列車として走った451・471系電車をはじめとする交直流両用の急行形電車は、急行形電車であるが故に車内の座席はリクライニングなどしない、背ずりも固定されたボックスシートです。しかも登場時は冷房装置など装備してませんでしたから、夏季は窓を開けるのが当たり前という時代です。あの窮屈な座席に長時間座るだけでも疲れてしまいそうですが、夏季は冷房がないとなるともはや体力勝負といっていいかもしれません。少なくとも完全に「現代人」と化した(笑)筆者も、さすがに想像するだけで二の足を踏んでしまいそうです。

f:id:norichika583:20180517135401j:plain▲急行列車の座席はすべて背ずりが固定された昔ながらのボックスシートだった。この座席に10時間近くも乗り続けるには、相当の体力と覚悟が必要だったことが窺える。(筆者撮影 写真はキハ40形)

 余談ですが、幼い頃に父に連れられて新潟の柏崎へ旅行したときのこと。行きは特急「はくたか」で、特急形電車で快適な旅行でしたが、帰りは直江津から急行に乗ったので特急とは雲泥の差。座席は硬く、しかもこの時は1977年だったので、急行列車として走っていた165系電車も普通車は冷房装置の取付が完全に終わってなかったのか、とにかく暑くて仕方がなく、終着の上野に着くまでの間をただひたすら耐えていたという記憶があります。かくも先人たちは、こうした苦労をしながら列車に揺られていたのを思うと、頭が下がる思いです。
 これだけ長距離を長時間かけて乗るとなると、ただ座っているだけではなく、食事の問題も起きます。先ほど紹介した名古屋-博多間の「はやとも」であれば13時間は列車に乗らなければならず、途中で昼食と夕食をとらなければ体が参ってしまいます。
 これだけの長距離列車となれば、駅弁だけというわけにはいかなかったのでしょう、急行列車にも食堂車を連結していました。夜行列車には本格的な食堂車が連結されていましたが、昼行のそれも電車で運転される列車には半室に食堂設備を備えたビュッフェ車を連結していました。

f:id:norichika583:20180517105147j:plain▲半室食堂車であるビュッフェ車には、スペースが限られていたため調理設備も食堂車に比べると簡易なものとなった。そのために、蕎麦やうどん、丼物といった簡単な調理で提供できるメニューが揃えられていたが、長距離を旅する乗客には人気もあり常に賑わっていたという。基本的には立食形式で、カウンターか窓側の細いテーブルで食事をしたようだ。写真は新幹線0系電車のビュッフェ。(©DRAGONBALLXYZ Wikimediaより)

 このビュッフェ車は食堂車ほどの面積がなかったので、調理設備も限定されている関係もあり、提供される食事も食堂車ほどのメニューは難しかったようですが、黎明期には驚くことに「握り鮨」がメニューとして提供されていたといいます。揺れる列車の中で握り鮨を食べるのはどんな気分だったのか想像するだけで楽しそうです。
 交直流両用の急行形電車のビュッフェ車では、握り鮨ではなく蕎麦やうどん、丼物といった比較的簡単な調理で済む軽食を供していたようです。それでも、ビュッフェ車は多くの乗客で賑わっていたようで、一等車(現在のグリーン車)を含めて座席車には冷房装置がなかった時代、ビュッフェ車は食品を扱うとともに電気レンジといった加熱機器もあったことから、ここだけは製造当初から冷房装置が設置され、食事を楽しみながら涼む乗客も多かったとか。いずれにしても、繁盛していたようでした。
 その旅の楽しみである食事を供するビュッフェ車も、1970年代に入ると様相が一変します。新幹線の延伸による運転距離の短縮もありましたが、食堂車乗務員の確保が困難になってきたことや、長距離旅行をする利用者が他の交通機関へ移転し列車の乗客の減少など様々な要因から、急行列車での食堂営業を取りやめになり、半室ビュッフェ車は編成から外されてしまいました。