旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【3】

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 旧来の電車とは様々な面で一線を画した、国鉄の新性能電車の第一弾として登場した101系電車。実際に就役して走り出してみると、いろいろな問題点も出てきました。
 その問題点をクリアにしながら、可能な限りランニングコストを抑え、そして国鉄の標準通勤形電車として開発されたのが103系電車でした。


前回までは 

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  外観のデザインや基本設計は101系電車を踏襲しながら、多少の改良を加えました。幅1300mm両開きドア×4個と車内にはロングシートを備えているという点では101系電車と同じでした。正面の運転台窓が天地方向が若干短くなり、正面の行先方向幕窓の横方向の長さが僅かに長くなった、というのが変更点でした。

f:id:norichika583:20180623205427j:plain南武線浜川崎支線で最短の2両編成を組んで走る101系電車。国鉄で初めて振動や騒音、そして軌道への負担も少なく高速で走ることができる「新性能電車」として開発されたが、すべての車両をモーターなどを装備した電動車で組むことを前提にしたため、実際に走らせてみると電気を多く消費するために変電所が追いつかなかったり、モーターが過熱したりと問題もあった。(1984年5月 浜川崎駅・筆者撮影)

 そして、なんといっても走るための電気機器は大きく変わりました。101系電車では定格出力100kWのモーターを装備していましたが、103系電車では110kWのモーターを装備しました。僅か10kWのパワーアップでしたが、モーターの出力に余裕がある分、モーターを装備していない付随車を連結した場合、同じ両数でも103系電車の方がモーターの出力に余裕がある分、これにかかる負荷が少ないので101系電車のようにモーターが過熱状態になりにくくなったのでした。
 そして、モーターを積んだ電動車を少なくできる分だけ、1つの列車が消費する電力も101系電車に比べて少なくなり、製造コスト、ランニングコストとともに抑えることができました。
 こうして開発・製造された103系電車は、1964年に山手線を活躍の場として走り始めます。山手線には既に黄色に塗られた101系電車が走っていましたが、103系電車はなんとうぐいす色に塗られていました。そうです、今日に至る山手線のラインカラーは、実は新型電車の登場とともに始まったんです。

f:id:norichika583:20180623211234j:plain▲新たに開発された103系電車は山手線を最初の働き場所にしたが、車体の塗装はそれまで走っていた101系電車のカナリアイエローではなく、うぐいす色を身の纏って登場した。103系電車が続々と山手線に入ってくると、101系電車は総武・中央緩行線(総武中央線各駅停車)へと異動していき、カナリアイエローがその路線のラインカラーとして定着、うぐいす色は山手線のラインカラーになっていった。(©永尾信幸 Wikimediaより)

 先輩格である101系電車を総武・中央線へと転属させながら、この1年間だけで202両が製造されました。単純計算で1.8日に1両が製造されるというものですから、当時の日本の工業力や103系電車の設計を考えると、かなりのハイペースでつくられたのが分かります。
 その年のうちに、103系電車は首都圏だけではなく関西方面へも進出しました。東海道本線の京都駅と神戸駅間を結ぶ普通電車(京阪神緩行線、現在のJR京都線JR神戸線の普通電車)として、スカイブルーの色を身に纏って登場します。翌1965年には同じスカイブルーを身に纏って、京浜東北線も新たな活躍の場に加えました。矢継ぎ早に活躍の場を広げていく103系電車、6両~8両編成と国鉄の通勤路線としては比較的長いので、その必要な車両の数も多いものだったと想像できます。この頃から国鉄の台所事情が悪化しはじめていたことを考えると、かなり厳しい中での増備だったのではないでしょうか。
 1967年には常磐線快速も活躍の場として加わりました。この常磐線快速は、これまでの路線とは少し性格が異なり、性能ぎりぎりの高速で走り続けているところからブレーキをかけ始めることや、こうしたブレーキの使い方をする頻度が多いことでした。そのため、僅かながらも改良が加えられました。付随車の台車に装備されているブレーキを、車輪を抱くようにする踏面ブレーキからディスクブレーキへと変更したのです。
 さらに、1968年には山手線で走り続けている103系電車を、それまでの8両編成から10両編成へと変化しました。当時は8両編成でも長い方だったのですが、それでも増加するお客さんを捌ききれず、ついに通勤電車としては最長の10両編成へと増強したのです。思えば、既にこの頃から東京集中化が始まっていたのでしょう。とにかく、増える一方の乗客を捌くことは、国鉄にとって喫緊の課題だったといえます。
 ところが、この10両編成化では一つ問題がありました。それは、電車たちの住処が狭いということでした。当時は品川駅に隣接した品川電車区が山手線の電車の住処でした。ところが、この品川電車区には仕事を終えた10両編成の電車たちを収容するには狭かったのです。
 国鉄はコストがかかることも承知で、京浜東北線の下十条電車区や蒲田電車区に「外泊」させることで対処しました。とはいえ、うぐいす色に塗られた山手線の電車が外泊のために場所を取り、本来の住民であるスカイブルーに塗られた京浜東北線の電車が住処に帰れないようでは話になりません。
 そこで、大井工場に隣接した場所に、山手線の電車のための新たな住処をつくりました。山手電車区と名付けられた新しい住処は、鉄道の車両基地としては珍しい総二階建てで、完成当時は「東洋随一」とまでいわれたそうです。