旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【22】

広告

大阪湾に沿って紀州路へとつないだスカイブルーの103系【前編】

 国鉄の標準通勤形電車となった103系電車は、既にお話ししてきたように衰えることを忘れたモンスターのように混雑の激しさを増し続ける首都圏の通勤路線で活躍していたのと同時に、西の大都市である大阪を中心とした関西圏にも、激しくなり続ける通勤路線の混雑緩和の切り札として登場しました。

 関西圏で最初に103系電車が登場したのは、意外にも天王寺と和歌山を結ぶ阪和線でした。阪和線の電車たちが住処にする鳳(おおとり)にスカイブルーの103系電車がやって来たのは1968年10月のことでした。
 1968年10月といえば、国鉄の長い歴史の中でも語り継がれている「ヨンサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正が行われた時です。


前回までは

blog.railroad-traveler.info


  関西圏で混雑が激しい通勤路線はこの他にも、大阪環状線京阪神緩行線(現在のJR京都線JR神戸線各駅停車)もありましたが、どちらも既に101系電車が配置されていたので、103系電車は阪和線へと登場しました。

 1960年代半ばの阪和線もまた、混雑が激しくなる一方でした。
 高度経済成長に伴う沿線の開発が急ピッチに進んでいて、大阪市ベッドタウンとして進化を続けていたため、沿線の人口も急激に増えていました。もちろん、通勤での需要も増え続けていました。

 この頃の阪和線を走る電車は旧性能電車でした。ところが、首都圏のように混雑する路線であるにもかかわらず、多くの乗客を捌くことができる乗降用の側扉4ドアの72系電車はごく少数が配置されていただけで、多くは戦前製の20m級電車で側扉3ドアがほとんどでした。
 加えて混雑率は増加する一方であるにもかかわらず、列車は4両編成が主でした。さすがにこれではマズいと国鉄も考えたのでしょう。急行電車(今日でいうところの快速列車)の運転を開始して速達性を向上したり、6両編成に増強したりして対応しました。

 急行電車は52系と呼ばれる流線型をした先頭車が特徴の電車が使われました。しかし、この電車は側扉2ドアで、客室内もクロスシートが並んだ中長距離向けの設備をもち、通勤ラッシュに対応するにはあまりにも困難なものでした。

 しかも、年を追うごとに激しくなる混雑は、ついに300%を超えてしまいます。
 そこで、接客設備云々は別として、とにかく多くの乗客を捌くことができる性能と設備をもった車両の登場が待たれました。

 こうした経緯で、103系電車が阪和線にやって来たのです。
 スカイブルーの103系電車はさっそく、52系電車が活躍した急行電車の後継となる阪和線快速電車での活躍を始めました。
 阪和線を走り始めた103系電車は、さっそく6両編成を組んで快速列車として走り始めます。両開き4ドア、ロングシートという収容力と新性能電車であるが故の高い加速・減速の性能は、混雑が激しい阪和線でたくさんの乗客を乗せ、そして列車のスピードアップと輸送力の改善に大いに貢献します。

広告

 老朽化が進む旧性能電車を置き換えるため、103系電車は続々と阪和線にやって来ては活躍の場を広げ、旧性能電車の働き場所であった普通列車にも進出し、老兵たちを引退へと追い遣っていきます。

 そんな中、1972年に阪和線にも新快速が運転されることになりました。
 それまで阪和線の快速列車は103系電車の仕事でしたが、新快速の運転開始とともに白っぽいグレーにスカイブルーの帯を巻いた113系電車がその仕事に就き、103系電車の仕事は快速がなくなってしまったことで普通列車だけになりました。
 その後、新快速は1978年に廃止となります。運転開始から6年間という短命に終わったサービスでしたが、まだまだ旧性能電車が大勢を占めていたので、新快速色の113系電車やスカイブルーの103系電車はともかく目立ち、そして新快速は冷房装置が装備されているなど、多くの面でサービス改善に貢献しました。

 一方、鳳駅から東羽衣駅の間、僅か1.7kmの支線にも103系電車が1977年にやってきました。
 それまで103系電車が活躍する路線といえば、ラッシュ時の混雑が激しく、駅間の距離も比較的短く、そしてある程度の距離を走り、多頻度運転がされるところでした。そのため、連結する車両の数も自ずと多くなり、どんなに短くても4両編成、長いところでは10両編成を組むのが一般的でした。
 ところが、阪和線羽衣支線103系電車が活躍する場所としては、僅か1駅しかなく、高速で走る必要もない路線でした。加えて、これだけ短い距離を往復する路線であるが故に、利用する乗客の数もそれほど多くありませんでした。
 それでも、国鉄羽衣支線103系電車を送り込みました。それも、たったの3両編成という短さで、当時の103系電車の運用思想からは大きく外れたものでした。

 このような路線に103系電車が送り込まれてきたのは、すでに本線には103系電車が多数を占めるようになり、支線だけ旧性能電車を残したままというのは、運用上も保守上も効率が悪くなるからでした。
 同じ路線の同じ区所ならば、同じ形式の車両を配置したほうが、コストもかかりませんし運用する側にとってもメリットがあったのです。

 こうして、羽衣支線にも103系電車がやってきたのでした。