旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【26】

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浪速の中心を回り続けたオレンジバーミリオン【1】

 関西圏の103系電車はスカイブルーを身に纏ったものばかりではありませんでした。
 大阪市の中心部を環状に走る大阪環状線はその成り立ちが非常に複雑で、首都圏の山手線のように国が敷いた鉄道ではありませんでした。今宮駅天王寺駅は大阪鉄道が関西本線の一部として建設し、天王寺駅-玉造駅-大阪駅間も大阪鉄道が「城東線」として建設しました。

 一方、大阪駅-西九条駅間は西成線(現在の桜島線JRゆめ咲線)の一部として西成鉄道の手によりつくられました。そして、鉄道省が建設したのは境川信号場-今宮駅間で、残りの西九条駅境川信号場は第二次世界大戦後に国鉄が建設したことでようやく現在の形に完成しました。

 大阪環状線はその名の通り線路が環のようにつながっている線路です。確かに普通列車環状線を出ることなくグルグルと回っています。これは首都圏の山手線と同じで、列車が向かう方向によって「外回り」「内回り」と読んでいます。

 ところが、山手線と同じだと思って大阪環状線のホームに立つと、あまりにも列車の種類が多くて戸惑ってしまいます。天王寺駅発着の快速列車が、大阪環状線内を走っていくのです。
 和歌山方面の「紀州路快速」や、関空連絡鉄道の「関空快速」、そして奈良方面へ向かう「大和路快速」は天王寺駅から分かれていく阪和線関西本線へ乗り入れる列車です。しかし、これらの列車は天王寺駅発着ということは間違いないのですが、天王寺駅から直接それぞれの路線へ向かって行くのではなく、大阪環状線を一周してから阪和線関西本線へと入っていくのです。

 しかもこれらの列車は、すべて221系電車や223系電車、225系電車と民営化後につくられた車両で、外観も色もすべて同じです。そのため、どこへ向かう列車なのかを把握してから乗らないと、とんでもないところへ連れて行かれることもあり得ます。ですから、乗客はとにかくどこ行きなのかを方向幕などで知った上で乗る必要があるでしょう。

 これらの快速列車は、大阪環状線では普通列車よりも多く運転されています。
 ともかく速く走らせ、面倒な乗り換えも可能な限り少なくし、クロスシートを備えた車両で接客サービスも高い水準をと、まさに私鉄と熾烈な競争を繰り広げてきた歴史をもつ関西のJRらしいといえばそうかも知れません。

 そんな列車たちの合間を縫うように、大阪環状線を出ることなく、グルグルと回り続けている普通列車は、環状運転が開始されるまでは茶色い72系電車の仕事場でした。
 環状運転が始められた1961年からは、新性能電車である101系電車が森ノ宮に送り込まれてきました。オレンジバーミリオンに塗られた真新しい101系電車は、大阪環状線普通列車だけではなく、桜島線に直通する列車にも用いられます。
 しかし101系電車だけでは茶色い72系電車を置き換えることは叶わず、1969年になって103系電車が森ノ宮に送られてきました。

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 大先輩でもある旧性能車の72系電車は、103系電車が森ノ宮にやってくるごとに活躍の場を他へと移したり、中にはすべての役を終えて退いていったりしました。
 そして、すべての72系電車が大阪環状線から消えると、101系電車とともに103系電車はその主力として、関西の中心地で走り続けることになります。

 その後は冷房装置を装備していない車両に冷房装置を取り付けたり、あるいは最初から冷房装置を装備した新車に置き換えて、古い車両を周辺へと移動させたりしましたが、目立って大きな変化はない日々でした。
 国鉄の分割民営化も現実的になった1985年には、一緒に浪速の中心で走り続けてきた先輩である101系電車が森ノ宮から去って行きます。こうして名実ともに、103系電車は大阪環状線の主力となりましたが、民営化後の1989年には再び101系電車が出戻りとなって、再び肩を並べて走ることになりました。

 しかし、その期間はあまり長くは続きませんでした。
 101系電車自体が103系電車に比べて古く、モーターの出力も1基あたり100kWと103系電車の110kWと僅かに低いですが、もともとがすべてモーターを積んだ電動車で編成を組むことを前提とした設計だったので、モーターのない車両を組み込むと加速性能が落ちるという課題を抱えていました。

 103系電車も同じ課題はありましたが、101系電車はそれが顕著だったといえます。さらに悪いことに、加速性能が落ちるためにスピードアップにも影響を及ぼしてしまいます。民営化後のJR西日本は、並行する多くの私鉄と対抗する上で、スピードには異常なほどの執着をもっていたといえます。そのような環境で、101系電車をこれ以上使い続けることは難しくなっていったと想像できます。

 1990年代に入り、大阪環状線の保安装置を更新する話が持ち上がっていました。ATS(自動列車停止装置)を従来のB形から、最新式のP形へと更新するということでした。
 このATSの更新を機に、101系電車は長く住み慣れた森ノ宮を離れ、大阪環状線での仕事から退いていきました。
 そして1991年からは、再び103系電車が単独で浪速の中心の旅客輸送に徹します。


 前回までの記事です

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