旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【31】

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21世紀近くになって得た新たな仕事場【2】

 一方、JR西日本にとって、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は大きな転機の一つになったといえるでしょう。この震災で山陽本線は不通になり、寝台特急列車や貨物列車といった長距離列車の運転にも大きな影響を及ぼしました。
 播但線加古川線といったそれまでローカル線に過ぎなかった路線は震災による被害が少なかったことから、これらの列車を通すための迂回ルートになりました。しかし、この当時はどちらも非電化であったために、機関車を付け替える必要があるなど課題も多くありました。


前回までは

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 そこで、山陽線が不通になったときには迂回ルートとしての機能をもたせるために、播但線の姫路-寺前間と加古川線を電化することになり、ここを走る車両として103系電車に白羽の矢が立ち、改造された車両たちが配置されました。

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播但線に配置された103系はワインレッドの塗装を施された。比較的経年の浅い車両が選ばれ、改造と同時に外装・内装ともにリニューアルを施された。(Mitsuki-2368 [GFDL または CC-BY-SA-3.0], ウィキメディア・コモンズより

 播但線にはワインレッドの103系が、加古川線にはエメラルドグリーンの103系がやってきました。どちらもJR西日本が得意とした大規模な延命工事を施した車両を、これらの路線の特性に合わせてさらに改造を加えたもので、どちらもワンマン運転をすることが前提の仕様となりました。
 103系が世に出てから既に30年以上近くが経っての新たな配置は、言い換えればJR西日本の事情や体質といったものを体現していることの一つといっても過言ではないでしょう。

 播但線加古川線も、輸送量が少ないローカル線です。そのため、どちらも2両編成という短い編成を組んでの運用となりました。しかし、103系は電動車を2両1組でユニットを組むことが前提とした設計です。ですから、播但線加古川線も、すべて電動車となってしまい出力の高い列車になってしまいました。言い換えれば消費する電気が大きく、経済性に乏しいものになってしまったのです。

 しかしながら、新車をつくって配置する余裕がなかったため、JR西日本としてはそのことを承知しながらの窮余の策だったといえるでしょう。

 いずれにしても、基本設計が1960年代で、もっとも新しくても1980年代初めにつくられているのですから、21世紀に入って20年近くが経とうとしている今日において、リニューアルによる延命を受けているとはいえども、その陳腐化や老朽化はいかんともし難いものがあるといえます。

 加えて、輸送単位の小さい地方ローカル線で使うために最適化した105系のうち、103系を改造した4ドアの車体をもつグループは、桜井線や和歌山線で地域の足ととして走り続けてきました。長らくこれらの電車たちの牙城といっても過言でないほど、後継となる新車の話は微塵もありませんでした。

 ところが2018年になり、山陽本線の広島地区と中心に増備が続いている237系を、桜井線・和歌山線の実態に合わせた仕様に変更た車両を配置すると発表があり、早くも9月以降に車両メーカーからJR西日本に引き渡されています。

 このように、長きにわたって貢献してきた103系ではありますが、21世紀も半ばに差し掛かろうとしている今日において、地方の輸送単位が極めて小さいローカル線とはいえ、2両編成すべてが電動車で組成した列車を走らせ続けるのは、消費電力の量も多く省エネ性に乏しいばかりか、運用するコストもかかり過ぎてしまうことは想像に難くないでしょう。経営的にもこうした状況をいつまでも放置し続けるのは得策でないのは素人目にも明らかなので、改善のために新車を送り込んでくるのは時間の問題といっても差し支えないといえます。

 

 とはいえ、21世紀になった今日では、103系は電気を食うとか、その重さが振動と騒音を撒き散らすとかいわれています。
 しかしながら、第二次世界大戦終結後の混乱も一段落し、高度経済成長期という我が国が戦争の痛手から立ち直り、飛躍的な発展を続ける中で、大都市圏での驚異的ともいえる痛勤ラッシュの混雑を少しでも緩和し、多くの通勤客を高速かつ効率的に運び続けたという実績、そしてJR・私鉄を問わず、今日の通勤形鉄道車両の原点の一つとなった功績は称えられるものといえるでしょう。

 もう間もなく2019年になり、31年間続いた平成という時代も終わろうとしています。
 昭和の時代に産声を上げ、その終わり頃には生みの親たる国鉄が事実上の破綻をし、同じ系列としては非常に多い3,477両の兄弟たちはそれぞれの旅客会社へ別れて引き取られていくという激動の時を経験しました。そして、20世紀から21世紀という新たな時代に入っても、103系が担った役割は不変のもので、「混雑する通勤路線で、効率かつ高速にお客さんを輸送する」というものをこなし続けました。
 それ故に、筆者はもちろんですが、多くの人が混雑するラッシュの時間帯に、通勤や通学で乗るなど、「生活の一部」としての鉄道車両ともいえるでしょう。

 いつも見ていたあの「黄色い」電車。
 あたりまえだと思っていた「うぐいす色の電車」がある都会の景色。
 名高い景勝地の景色にはまっていた「オレンジ色の電車」。
 いずれも、既に過去帳に入ってしまいました。

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 今なお、残って走り続けている103系という電車も、もう間もなくその長い激動の歴史に幕を閉じるでしょう。しかしながら、「痛勤ラッシュを支え続けた」という役割は大きく、言い換えれば日本の経済や社会を支え続けた立役者といっても、けして大袈裟なものではなく、103系が果たした功績を称えずにはいられません。

〈了〉