旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・現場へ向かう公用車の運転は若手の仕事【1】

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現場へ向かう公用車の運転は若手の仕事【1】

 鉄道会社で仕事をしていると、多くの人は現場までの移動には鉄道を使うのかと思われることが多い。まあ、会社の一番の商品は安全で確実、そして速く走る列車なので、その考えもわからなくもないが、残念ながら列車での移動というのはあまりない。

 特に私のように施設・電気系統の仕事は、駅や機関区といった運転の拠点だけではなく、その間にある線路も管轄の範囲にあるので、こうしたところへ行くのに一般の営業列車で行くのは少し不便なのだ。

 それに、貨物駅は必ずしも旅客列車が営業運転をしている路線にあるわけではない。例えば電気区詰所のある横浜羽沢駅は、東海道本線上にあるのではなく、貨物列車用につくられた支線(東海道貨物線)にある駅なので、旅客列車は停車しないどころか通りもしない。

 加えて現場に行く時には、必ず作業に使う工具を持って行かなければならない。この工具も、自分だけが使う小さなものから、大型のハンマーやスパナ、時にはポータブルの発電機などの大きなものまで持っていかなければならない

 そんなわけで、鉄道会社にも現場に出向くための足として、ライトバンや小型トラックといった自動車が配置されている。私が勤務した電気区にも2台のライトバンが配置されていた。(後に組織改正で派出に配置していた小型トラックが追加された)

 その公用車の運転は、基本的には若い職員の仕事だった。
 もちろん、配属された当初や、隅田川駅で研修を受けるために支社の技術課付のときはなかったが、研修を終えて一通り現場にも慣れ始めた頃には、気がついたらほぼ毎日のように公用車を運転していた。

 まあ、配属間もない頃は現場に出たところで大して役に立つほど仕事ができるわけでもない。そうなると、現場に出た時には先輩方について仕事を覚えながら雑用をこなすか、ほかの部分で仕事を支えるしかない。
 だからというわけではないだろうが、現場の往復は若い職員が運転をし、その間は先輩方はしばし休息というのが常だった。

 もう一つ、主任は意図的に若い職員に運転の仕事を宛がっていた。
 というのも、いまではどうなっているかは分からないが、私が入社した90年代初めの頃の鉄道の給料というのは、驚くほど低かった。鉄道は夜勤や徹夜勤務といった不規則な交代勤務が前提で現場職員の給料が決まっていたので、多くの場合は深夜手当など割増手当である程度の給料がもらえる仕組みだった。

 ところが施設・電気系統は現場でありながら、日勤勤務が指定されていたので、こうした割増賃金をもらうことは滅多になかった。だから、同じ会社の鉄道マンでも、駅の営業や輸送、機関区の仕業検査に携わる職員と比べると、比較的お安かったのだ。

 だから、というわけではないだろうが、私のように若い職員に公用車の運転を任せ、運転した分でもらえる運転手当で少しでも財布が暖かくなるようにしていてくれていたようで、とても有り難かった。

 横浜羽沢の本区時代は、新鶴見機関区と信号場の一部、新興駅と東高島駅、そして根岸駅田浦駅逗子駅が管轄だったが、新鶴見は私が育った町であり入社当時も住んでいたから、往復の道順も問題なかった。というより、自宅へ帰るようなものだった。
 新興駅と東高島駅も、慣れた町の中を走って行くようなもの。というのも、入社直前まで通っていた高校は横浜市神奈川区にあったことと、高校最後のアルバイトは学校から比較的近いところにあったピザ屋で配達の仕事をしていたことで、区内の地理には明るい方だった。
 そのおかげで、横浜羽沢駅から新興駅や東高島駅への往復は、高校の近所を走って行った。まあ、同じ区内だったのもあって、ほかの同期よりは道を知っていたのと、もともと車の運転は好きだったのでそんなに苦にはならなかった。

 ただ、横須賀線逗子駅田浦駅での作業の往復は、横浜横須賀道路を使わなければならないので、高速道路を走ることもあってある程度の経験を積まなければ運転をさせてもらえなかった。それでも、比較的早い段階で任されたことを覚えている。