旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 常に目立つことなく隠れた力持ち【5】

広告

ハンプ押上の真打ちDE11形の登場と操車場での仕事

 DE11形は1967年から量産されると、さっそく大規模操車場における貨車の入換作業に就くため、隣接する機関区へと配置されます。最初に配置されたのは、首都圏でも指折りの操車場で、日本の三大操車場の一つでもある新鶴見でした。

 当時の新鶴見操車場では、周辺の各駅からやってきた貨車を行き先別の列車に仕分けて組成し、全国の拠点となる操車場へ向かう貨物列車を走らせる役割を担っていました。


blog.railroad-traveler.info


 このように書くと、何を言っているのか分からない方も多いと思います。何しろ、鉄道貨物輸送に携わった元鉄道マンの筆者ですら、最初は何が何だかちんぷんかんぷんでしたから・・・。

 例えば、貨物を取り扱っている駅から貨物が発送されるとします。貨物を引き受けた駅は、貨物を載せるための貨車を手配します。すると、操車場から空の貨車が回送されてきます。この貨車を回送してくる列車を「解結貨物列車」と呼ぶ、小規模な貨物列車で操車場と近隣の貨物取扱駅の間を結んでいます。 空の貨車が駅に到着をすると、引き受けた貨物を貨車に載せます。駅は貨車の発送手配をすると、先ほどとは逆に操車場へ向かう「解結貨物列車」が駅にやってくると、駅で貨車の入換作業をしてこの列車に連結します。

 この時の入換作業は、前にもお話ししたDD13形のお仕事でした。
 こうして操車場行きの「解結貨物列車」に連結された貨車は、途中いくつかの駅で同じように貨車を連結しながら操車場へと向かっていきます。

 操車場に到着した「解結貨物列車」は、到着線と呼ばれる線路に入っていきます。そして、ここまで列車を牽いてきた機関車は役目を終えて切り離され、代わりに操車場で入換作業を専門にする機関車が連結されます。
 そして、この入換線用の機関車は、「ハンプ」と呼ばれる人口の丘へ、操車場に到着した貨車たちを押し上げていくのです。この押し上げる入換線用の機関車こそ、今回のお話の主人公でもあるDE11形の役割でした。

 さて、もう少し当時の貨物列車のお話をしていきたいと思います。
 「ハンプ」と呼ばれる人口の丘に、DE11形によって押し上げられた貨車たちは、その丘の頂上で連結器を外されました。それまで一つの列車として編成を組んでいたのが、そこで一両から多くても数両単位で切り離されていきます。
 切り離された貨車は、丘の上から今度は下り坂を重力の法則に従って転がり下りていきます。そして、その貨車は何本も並ぶ仕訳線と呼ばれる線路の一つへと下りていきます。その線路には、貨車の行き先となる駅の最寄りとなる操車場へと向かう列車となるため、同じようにハンプから仕訳されてきた貨車たちが待っています。
 ちなみにハンプから重力の法則によって転がり下りてきた貨車には、ブレーキをかける機関車などありません。貨車にブレーキを掛けるのは、操車場に勤務する職員たちで、操車係が転がってくる貨車に飛び乗り、二軸の貨車なら留置用のフットブレーキを、デッキのあるボギー貨車ならデッキに跳び乗り手ブレーキを掛けて貨車のスピードを落としていたのでした。
 もちろん、この作業は危険が伴う文字通り「命がけ」の仕事で、実際に飛び乗りに失敗して貨車に轢かれて殉職した職員も多くいました。大規模の操車場があった地で、いまも鉄道の施設があるところには殉職した職員のための慰霊碑があり、国鉄からJRに移行した今日も慰霊祭が執り行われています。

 こうして「解結貨物列車」が到着すると、DE11形が貨車たちをハンプに押し上げ、ハンプから行き先別に仕訳線へ貨車を振り分ける作業を繰り返していき、各駅から集まってきた貨車たちは一つの列車に仕立てられていきます。
 そして、発車時刻が近づくと、出発線の方からDE11形がやってきて、列車に仕立てられた貨車たちは出発線へと引き出されていき、そこでDE11形に代わって行き先の操車場まで牽いていく機関車が連結され、貨物列車として発車していくのでした。

2012-09-17_17_2
▲鹿島田跨線橋から望んだ、1982年頃の新鶴見操車場の鶴見方。操車場の山側には品鶴線の上り線があり、その上を旧型電機(恐らくEF15形)が牽く貨物列車がやってきた。その手前、車掌車ヨ5000形を先頭に石炭輸送用のホキ10000形が連なって押し上げられている複数の線路が人工的に造られた丘である「ハンプ」で、この貨車を最後尾で押し上げているのがDE11形だった。貨車たちはこの後、ハンプの頂上で連結器が開放されて、それぞれ方面別に「散転」し仕分けられ、列車として組成される。興味深いのは、ホキ10000形のように拠点間輸送が可能な貨車も、ハンプに押し上げられているということだ。ちなみに、ホキ10000形は操車場が機能を停止してから35年以上が経った今日も、鶴見線扇町駅から秩父鉄道三ヶ尻駅間の石炭輸送に活躍している。後方に写る丘は筆者の地元にある山で、幼少の頃よく遊んだところだ。(1982年夏頃 筆者撮影)

 このように、大規模な操車場では、貨物を載せて重量の嵩む貨車がたくさんやってきて、それを後ろから押し上げたり、逆に引っ張り出したりするので、入換線用の機関車には相応のパワーと引き出す能力、そしてブレーキ力が要求されたのです。
 そして、DE11形はその期待に応えてくれるであろう性能をもたされていました。

 こうした機関車としては地味で、しかも過酷な仕事をはじめたDE11形。
 日本の三大操車場とも呼ばれた、国鉄でも五本の指に入る大規模な操車場だった新鶴見での仕事もまずまずの成果を出すことができました。そして、それまで蒸気機関車が担っていた入換作業を、DE11形が代わってこなすようになります。
 DE11形の量産が続くと、新鶴見の入換線用の機関車はすべて蒸機からディーゼルに置き換えられました。本線は電気機関車によって無煙化が達成していましたが、重入換用の機関車がなかったことで蒸機頼みだったのが、1960年代も終わりに近づいた頃になってようやく無煙化を達成したのです。
 そして、新鶴見での成果が良好だったことで、DE11形は吹田や稲沢といった新鶴見と並ぶ三大操車場はもちろん、岡山、大宮、沼津などハンプを備える操車場に送り込まれ、蒸機機関車たちに取って代わって重い貨車たちを入換るという仕事を、そのパワーと性能をもってはじめていきました。