旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 ~湘南・伊豆を走り続ける最後の国鉄特急形~ 185系電車【7】

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(6)国鉄の終焉と民営化直後

 1985年のダイヤ改正で東北・上越新幹線が上野開業を果たすと、それまで上野-大宮間の新幹線利用客輸送の専用列車である「新幹線リレー号」もその役割を終えて廃止された。新前橋の185系200番代は当初からの計画であったとはいえ、登場から僅か3年ほどで仕事を失うことになった。

 とはいえ、国鉄も最初からそのことは視野に入っていたので、すぐさま余剰ということではなかった。

 東海道本線の特急「踊り子」はほとんどが185系によって運転されていたが、3往復だけが先輩である183系による運転が残っていた。これは、185系が田町に送られてくるよりも前から運転されていた特急「あまぎ」の運用をそのまま「踊り子」に変えたためによるものだった。

 前回までは

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 しかし、同じ列車で異なる形式の車両を運用することは、運用面で合理的でないばかりか、検修面でもコストがかかってしまう。いくら共通する部品が多いとはいっても、その取り扱い方は異なるもので183系と185系ではその差異も大きい。

 そこで、「新幹線リレー号」の役目がなくなった新前橋の200番代のうち7両編成4本の28両が、1985年3月のダイヤ改正で田町へ転属となった。その玉突きで、田町にいた183系はすべて長野へと転属していき、「踊り子」はすべて185系による運転へと変わった。

 新前橋から田町に移った200番代28両のうち、1編成の7両は転属とともに0番代と同じ緑13号のストライプを身に纏った。ところが、残りの3編成21本については、転属後も200番代オリジナルである緑13号の帯を巻いた塗装のままだった。
 そのため、「踊り子」の運用に就いたときには、「踊り子」のヘットマークを掲げながら、かつての「新幹線リレー号」を想起させる出で立ちであった。その後、残りの3編成も順次検査などで工場へ入場するとともに塗装を変更されていったので、この帯を巻いた「踊り子」はごく僅かの期間しか見られない貴重な光景だったといえる。

 新前橋の185系200番代は、定期運用の列車とは別に、季節列車にも数多く活用された。夏季シーズンになると、上野と避暑地・軽井沢を結ぶ特急「そよかぜ」に宛てられた。この列車は高崎から信越本線へ入って碓氷峠を越えて軽井沢へと走るので、当然のことながら補助機関車のEF63の助けを借りることになる。200番代は0番代と異なり、いわゆる「横軽対策」を装備していたので、国鉄最大の隘路を走るといった特徴的な仕事もこなすことができた。その後、同じように碓氷峠を越える運用は、分割民営化後も季節列車を中心に続いた。

 ところで巨額の赤字を抱えた国鉄は、その再建が国の最重要課題となって国会などで議論されている頃、国鉄としてもなんとかこの状況を打破したいという思いはあったといえる。そうした中で、運賃値上げ以外でも可能な限りの増収策を打つが、夏の避暑地への旅行客輸送と並んで、冬のスキー客輸送を当てこんだ列車が1986年から運転された。

 「シュプール号」と呼ばれる列車がそれで、従来、国鉄はそうした列車を設定したことはなかった。しかし、自動車や飛行機に奪われた利用者を少しでも呼び戻し、収入を上げようと必死になっていた国鉄は、旧来からの伝統云々といっている余裕など微塵もなかったのである。

 1987年に国鉄が分割民営化されると、首都圏だけに配置されていた185系はすべてJR東日本に継承された。分割民営化直前の1986年は、各旅客会社へ継承される車両を適正化するため、数多くの車両たちが広域配転で動いていた。特に特急形電車は異動が激しく、九州の南福岡に配置されていた車両が東北へと移っていったり、或いはその逆もあったりと非常に忙しかった。

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▲分割民営化直後の1987年5月、東海道本線を走る185系。10両編成であることから、0番代の基本編成であることが分かる。国鉄最後の新製特急形電車としてつくられた185系は、首都圏で運用する事を前提とした「地域仕様」のため、広域配転などはなく民営化後も田町を住処にして、変わらぬ活躍を続けていた。(1987年5月頃 田町-品川 筆者撮影)

  ところが、同じ特急形電車でも、185系はほとんどといっていいほど動きはなかった。そもそも185系は従来の特急形電車のように、全国どこでも同じサービスを提供するという設計思想ではなく、地域の実情に合わせた設計だった。さらに185系自体が関東で使用することが前提であったため、製造稜数もその需要を満たす程度の数だけ造られたことも、広域配転の対象にならなかった理由だったといえる。

 広域配転がなかった代わりというわけではないが、有料ではあるが座席定員制の通勤ライナーである「湘南ライナー」としての運用が宛がわれた。朝の時間帯は小田原発の上り列車の設定のみで、東海道本線を走り品川または東京へ到着する列車と、旅客線ではなく貨物線を走って鶴見から品鶴線を経て新宿に到着する列車が設定された。特に後者は、後に「湘南新宿ライン」の嚆矢ともなる列車で、こちらも185系が運用に就いた。

 特急列車ではないため特急券は不要だが、代わりにライナー券と呼ばれる乗車整理券が必要だった。全区間510円という料金は、特急券よりも安くそして定員制なので座席に座ることができるので、湘南地域から都区内へ通勤するビジネスパーソンに好評だった。

 デッキ付2ドアという構造は、短時間で多くの乗客の乗降を捌かなければならない首都圏のラッシュ時に、普通列車として運用するのは乗降に時間がかかるため列車の遅延の原因になっていた。「踊り子」の間合い運用普通列車の仕事があっても、乗客はもちろん運用する国鉄の現場からもあまり歓迎されたものではなかったといえる。ところが、停車駅は限定され、しかも料金を取る座席定員制の列車となれば、こうした構造の車両は逆に歓迎された。特急ではないので、転換クロスシートであろうがなかろうが、朝の混雑した時間帯にゆったりと座ることができるというのは、ビジネスパーソンには喜ばれた。

 もちろん、運用する国鉄の現場でも、「湘南ライナー」のようにほとんど特急と変わらないダイヤで運転されるのだから、遅延に悩まされる心配もない。そして、ラッシュの時間帯に高価な特急用の車両を遊ばせなくて済むのだから、効率性も高くなったといえる。

 このように、国鉄の新しい施策となる列車に185系は常にその舞台立つことになった。といっても、それはすべて首都圏でのお話。485系などのように全国的に見れば、これといって大きな動きもなく、1987年の分割民営化を迎えた。

 民営化直後は国鉄時代と変わらず、0番代は田町に配属されたまま「踊り子」を中心として、200番代は新前橋を拠点に高崎線の「谷川」「あかぎ」「草津」と、東北本線に新たに設定された「なすの」といった近距離急行を格上げした列車を中心とした運用に就いていた。

 民営化の翌年である1988年には、「新特急なすの」が、利用の低迷する4往復を快速列車へ格下げとなり、余剰となった200番代の一部が「踊り子」の増発用として転用されていくといった動きはあったが、やはり中心となる仕事に大きな変化はなかった。

 185系が登場してから10年強が経った1990年代半ば、継承したJR東日本の経営もそれなりに安定し軌道に乗ってくると、旧国鉄から引き継いだ様々なことの改善に乗り出した。例えば駅のホームにある駅名標は、それまで国鉄時代のままのものを使い続けてきたが、この時期に新しいデザインのものへと更新している。JR東日本の駅でみる漢字表記がメインでコーポレートから出るグリーンのラインというデザインは、この頃に交換されたものだ。

 ほかにも、製造コストと運用コストを可能な限り抑えた次世代車両である209系も、1993年から大量に量産されて短い期間で103系京浜東北根岸線から引退させた。この新車への置換えは、国鉄時代にみられたような長い期間をかけるのではなく、余裕のある資本と製造コストを徹底的に抑えた車両の大量量産という手法の組み合わせで、一気に短期間で達成させる方法へと変化した。そのため、これ以後は新車への置換えが発表されると、ほぼ1年でその路線のすべての車両が新車へと変わってしまう。

 そうすることで、利用者へのサービス水準の維持と向上を図れると考えられるからだ。

 そうした一方で、185系はといえば国鉄から引き継いだまま、特に手を加えられることなく走り続けていた。中央本線を走る特急「あずさ」には一部の列車に新型車両である351系がつくられたが、こちらは新宿-松本という比較的長距離を走り、しかも線形のよくない中央本線でのスピードアップのために振り子式車両を投じる必要があったからだった。

 特急「踊り子」をはじめとする185系の仕事である列車は、走る距離は比較的短く、東海道本線高崎線は平坦な地域を走るので、「あずさ」のような新車をつくる必要性はなかった。

 しかし、分割民営化から10年近くが経とうとしている当時、さすがに他の特急形車両と比べてどうしようもないことがあった。

 それは、車内の設備だった。

 1995年頃からJR東日本は、185系のリニューアル改造を施し始めた。コスト削減をねらって設置された転換クロスシートは、185系の評価を最も低くしているものの一つである。まずはこれを座り心地のよい回転式リクライニングシートへと交換した。もともとリクライニングシートが備え付けられていたグリーン車も、このリニューアル改造の時に新しいものへと交換している。

 さらに内装の交換や塗り床加工など、面目を一新する内容の工事を受けた。

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▲民営化後のしばらくの間は特に大きな工事を受けることもなかったが、財政的にも余裕が出てきたこともあって1990年代の終わり頃には、リニューアル工事を施された。主に特急用としては貧弱であった車内設備を中心とした内容だったが、同時に外装も田町車はオレンジと濃緑色という湘南色を、新前橋車は赤色と黄色、そしてグレーの3色を使ったブロックパターンに変えられ、若干印象が変わった。(2005年3月 伊豆急下田駅 筆者撮影)

 そして、外装も新たなデザインへと変わっていく。田町に配置された車両たちは、東海道本線のカラーである湘南色を使ったブロックパターンに、新前橋の車両たちは同じブロックパターンのデザインで黄色・グレー・赤色をつかったものへと変わった。

 こうして特急用車両としてふさわしい設備を与えられた185系は、その後も特急「踊り子」をはじめ首都圏の短距離特急を中心として走り続けていった。