旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・派出勤務と一本立ち【2】

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第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・派出勤務と一本立ち【2】

 梶ヶ谷派出勤務になって、なにより驚かされたのは管轄するエリアが途方もなく広いということだった。

 横浜羽沢の本区勤務時代は、どんなに遠くても横須賀線田浦駅だった。

 ところが、梶ヶ谷派出は東京西局の流れを汲んでいたため、中央本線も守備範囲に入っている。そして、ほとんどは八王子駅や八王子機関区での作業が多いが、それだけに留まらず、大月駅の先にある初狩駅や、さらにその遠くである石和駅(現在の石和温泉駅)。甲府駅の隣にある竜王駅までが派出の担当だった。

 初狩駅は遠いとはいってもまだいい方で、現場へは片道2時間もあれば行くことができる。まあ、それでも1作業をこなせば、すぐに帰らなければならなかったが、作業時間はそれなりに確保できた。

 石和駅や竜王駅はとにかく遠い。川崎市内にある梶ヶ谷派出からこれらの駅に出向くとなると、中央道をひたすら西に走って片道は軽く3時間もかかるという、とんでもない遠さだった。そして、現地に着いても確保できる作業時間もそれなりで、多くて1時間半が限界だった。これでは、まともな作業もできるはずもない。

 そのため、梶ヶ谷派出勤務の職員がこの2つの駅に出向くときは、工事設計などで現地を調査するときや、よほど緊急の保守作業の時だけだった。日常の保全作業は、これらの駅に近いところに事務所などを持つ協力会社に委託していた。この協力会社で保全作業に携わる方たちは、なんと国鉄を定年で退いた先輩たちが多く、ともするとJRに残った職員より技術力もあるという場合もあった。

 しかし、同じ中央本線の駅でも、八王子駅はそうはいかなかった。

 え、八王子駅で貨物の取扱いってあったの?なんて思われる方もいらっしゃるだろう。私も派出勤務になって、初めて八王子駅での作業を担務指定されたときはそう思った。確かに、八王子駅中央本線でも比較的大きな駅で、新宿から山梨県や長野県へ向かう特急列車や中央快速が停まる。そして、横浜線の終着駅で、私にとって馴染みのある横浜からやって来た205系が折り返していく。さらに、八高線の始発駅でもあり、当時はまだ非電化だったのでキハ30系やキハ38といった気動車も発着していた。

 旅客列車が数多く発着する駅の構内から東京方に少し離れたところに、八王子駅で貨物を取り扱うための小規模なヤードとコンテナホームがあった。コンテナホームはコキ車が数両停まれる程度の短いもので、こぢんまりとしたものだった。かつて、ヤード継走輸送が真っ盛りだった頃は、ここにワムやワラといった有蓋車がやって来て荷役をしていたと思われる上屋もあったが、既にその光景は過去のものだった。貨物列車の設定も1日に2~3本程度しかなかったため、貨物の取扱量も少ない方だった。とはいえ、現役で稼働している施設なので、保守をしないわけにはいかなかった。

 コンテナホームとは反対に横浜線ホームの南側には、いくつかの留置線と古めかしい建屋を擁する八王子機関区があった。この頃には機関車の配置は既になかったが、それでも常駐機として篠ノ井機関区や高崎運転所に所属するEF64が数両、留置されていた。また、八高線にも貨物列車の設定があったので、高崎機関区のDD51も八王子にやってきては、ここで折り返しの運用までの間だけ留置されていた。

 そして、旅客ホームがあるエリアから少し東京方へ行ったところには、小さな貨物ヤードとコンテナホームも設けられ、規模は小さいながらもコンテナ貨物の取扱いがあり、コキ車が数両停車していることがあった。

 加えて、さらに東京方にいったところには、日本オイルターミナルの八王子油槽所が設けられ、OT線と呼ばれる専用線が敷かれていた。

 ここには、根岸線根岸駅や、神奈川臨海鉄道末広町駅東海道貨物線扇町駅などから発送されたタンク車がやってきて、積荷であるガソリンや石油類(灯油や軽油など)の積み卸しをしていた。そして、ここにある貯蔵タンクから、八王子市や東京多摩地区にあるガソリンスタンドへ運ぶタンクローリの基地の役割を担っていた。言い換えればこの油槽所は、周辺地域に住む人々の生活を支える重要な線路だといえる。

 そして八王子駅の構内にある貨物の施設で、もう一つ忘れてならないのが八王子機関区[i]だ。

 この運転区所の名前を聞いて、懐かしいと思われる方は、恐らく私と同年代か、私より年上の方々だと思われる。既に廃止になって久しいこの機関区も、かつては中央本線の要衝として栄えたところだ。蒸気機関車時代はここで石炭と水の補給をおこない、「山線」と呼ばれる高尾駅より西の勾配が連続する険しい山道に備えていた。

 時は変わって電化されたあとも、勾配線に対応できる機関車への付け替えが行われていた。旧型電機の時代には、旅客を乗せる客車列車も、連続する勾配に対応できる歯車設定であったEF10やEF13といった貨物機が牽いていた。もちろん、中央本線の冬は東海道のそれと比べて寒く厳しい。そのため、冬には暖房が欠かせなかったが、貨物機であるEF10やEF13には暖房装置となる電源はもちろん、蒸気発生装置ももたなかった。そこで、わざわざ暖房車を連結させていたが、その基地としての昨日がここ八王子であったという。

 EF64に置き換えられ、暖房車こそは姿を消していったが、中央本線を往来した貨物列車や客車列車の先頭に立った彼らは、八王子をねぐらにして寒さと勾配の険しい山道をくる日もくる日も上り下りしていた。

 今日、八王子機関区は既に廃止になって過去のものとなり、コンテナ貨物の取扱いも廃止されて自動車代行へと切り替えられたが、当時は貨物輸送でも比較的重要な駅だった。だから、1週間6日間(この頃はまだ週休2日にはなっていなかった)の勤務のうち、4日以上も八王子に担務指定されることなどざらにあった。だから、梶ヶ谷派出はただ単に着替えて工具が置いてある場所で、実は八王子が勤務地だったのでは?なんて錯覚することさえあった。

 

[i] 民営化後、しばらくは機関車無配置の乗務員基地として残っていたが、1990年代半ばの合理化により八王子機関区は、八王子駅貨物扱いと八王子保全区(その前は八王子施設区と横浜羽沢電気区梶ヶ谷派出の一部)とともに八王子総合鉄道部へと統合されていく。そして、2000年代までには八王子総合鉄道部の乗務員は新鶴見機関区八王子派出の所属となったが、さらに組織の縮小と合理化が進められ、一部を新鶴見機関区甲府派出へ異動させて、八王子派出を廃止した。