いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
新型コロナウィルスが国内で流行し、日に日に感染してしまった方の数が増えています。
そのような中、先週の金曜日(2月28日)の18時過ぎ、まさに「青天の霹靂」という言葉があてはまる大事が起きました。
それは、18時過ぎに安倍首相が発表した「学校の臨時休校の要請」です。
スマホにニュース速報が入りその情報を得て、次に職場にあるテレビをつけてみると、まさにあの報道発表がされていました。
それからというもの、言葉通り「蜂の巣をつついたような大騒ぎ」になります。
それはそうでしょう。数時間前に帰宅させた子どもたちとは、3月には何をしようか、残りの学習は何があるかなど、年度末となる3月25日までの計画を話していたのです。
それが、政府による前代未聞の休校要請で、すべてが吹っ飛んでしまったのです。
翌週になり、管理職は右往左往し、私を含めた一般の職員はどんな指示が飛んでくるのか戦々恐々。そして、ニュースで何が起きたかは分かっていたが、これからどうなるのか分からない子どもたち。
次々に飛んでくる指示を飲み込み、それを分かりやすく子どもたちに伝え、これでもかというくらいに配られてくるお手紙類を配付し・・・もう、目が回るなんてものじゃない忙しさ、いえ異常な状態で令和初の年度は強制終了しました。
ただでさえ年度末は忙しいのですが、今年は忙しいを通り越した、忙殺された日々でした。
こんな毎日なので、残念ながら鉄分補給は一番最後。先ずは仕事を片付けなければ鳴りません。(そういいながら、ブログを書いてはいますが(笑))
この調子だと、鉄分補給に行けるのはいったいいつになるのか見当も付きません。
が、まあ何かネタでもないかと思いながら、パソコンをいじっていると、ちょっとしたネタを思いつく写真がありました。
というわけで、今週はこの1枚です。
国鉄特急色を身に纏い、大量のワム80000を従え走り抜けていきます。
側面にはJRマークが入っているので、民営化後の撮影です。恐らくは1987年か1991年頃に撮ったものですが、詳細な日時は記録も記憶もありませんが、ワム80000の中に色が変わった車両が見あたらないのと、新川崎駅近くにある超高層ビル(新川崎三井ビルディング、1989年竣工)がみえないことから、恐らく前者だろうと思います。
さて、この場所。旧新鶴見操車場にあった割畑信号所付近です。品鶴線から南武線尻手駅を結ぶ短絡線のが分かれるあたりで、江ヶ崎跨線橋のところでした。
かつては幾重にも敷かれていた線路は撤去されていましたが、左奥をよく見ると、小倉跨線橋のすぐ傍にある照明用のガントリーと、旧新鶴見貨車区の建屋が見えます。かつての三大操車場の痕跡がまだ残っていたのです。
操車場は廃止されてしまいましたが、写真のように車扱貨物列車はまだ健在でした。
かつての貨物輸送の主役である二軸貨車、その有蓋車でも代表格の一つだったワム80000も、既に過去のもの。
鶴操全盛期に跨線橋から眺めた貨車たちの中で、とび色に塗られたこの貨車はもっとも目立つ存在でした。というより、ワム80000がほとんどで、トラやホキなどがあるとそれはそれは珍しいものでした。
それゆえに、あまり関心を寄せる存在ではありませんでしたが、数を減らし運用終了が近づく頃になって初めて関心をもつようになるのは、悲しい性です。
そして、EF65 535も、かつては東京発のブルトレを牽いたという、栄光の経歴の持ち主でした。
(©Gohachiyasu1214 / CC BY-SA Wikipediaより引用)
写真は寝台特急「瀬戸」 を牽く535号機。
幼少だった頃、私が鉄道に関心をもつようになったのは、まさにこの写真のようにP形が牽くブルートレインでした。
このようなP形と20系または14系・24系といった客車を牽き、寝台特急として颯爽と走り抜ける姿は、多くの人によって記録がとられていることと思います。
そんな栄光の経歴をもった535号機も、東京機関区から沼津機関区へ異動。さらには民営化直前には高崎第二機関区(後に高崎機関区へ改称)へと移ったことで、その運命は決まりました。
最初の写真のように貨物会社の所属となり、重量の嵩む貨物列車を力いっぱいで牽くという、何とも地味で、そして車両に負担のかかる運用を続けることになります。
(©Gohachiyasu1214 / CC BY-SA Wikipediaより引用)
とはいえ、もともとEF65は貨物列車を牽くことを目的に開発されたので、本来の役割に戻ったともいえるでしょう。この535号機自体も、最初は0番代の77号機として落成し、寝台特急の増発による所要数の増加に伴い、改造によって500番代P形となったので、誕生したときの仕事になったといえるのでした。
しかし、寄る年波には勝てません。とりわけ貨物列車を牽き続けてきたために、老朽化も進んでいきます。また、貨物会社自体もそうそう多くの種類、そして多数の機関車をもっていては維持・運用のコストも嵩むので経営上好ましくありません。
できれば、電力を多く消費しない、そしてパワーのある機関車を必要最小限の数だけもっていればいいのです。
EF200に続いてコスト性にも優れたEF210が登場すると、国鉄形の機関車たちは御役御免となり姿を消していきました。
更新改造を受けていないEF65は真っ先にその対象になり、やがて更新改造を受けた車両も姿を消し始めていきます。
そうした中にあって、535号機は貨物会社で最後までのこった「非貫通型」のEF65でした。
そして、かつては栄光のブルトレ牽引機でもあった535号機は、貨物会社所属機の中でも破格の待遇を受けることになります。
国鉄特急色に戻され、車体側面に貼られていたJRマークも剥がされたその姿は、まさに国鉄時代そのものでした。さらに、運用離脱が近づいてくると、高崎機関区の職員たちによって、ヘッドマークをつけて貨物列車を牽くようになります。筆者が知る限り、こうしたことは滅多にあることではなく、塗装を戻したりヘッドマークをつけたりすることとなると、機関区の独断では難しく、支社あるいは本社の許可が必要です。
そうした理由からも、535号機は最後にもう一度、栄光の姿を彷彿とさせる待遇を受けた幸運の機関車だったといえます。
2008年3月、ついに535号機はその長い歴史に幕を閉じます。廃車となった後は、そのまま解体されるのではなく、しばらくは大宮車両所で保管され、イベントの時などにはその勇姿を見せることもありました。
2013年3月、535号機は77号機として生まれた故郷でもある、東芝府中事業所へと運ばれていきました。貨物会社から東芝へ譲渡され、この地で保管がきまったのです。
今日、この535号機を目にする機会はあまりありません。
それでも、電機の製造を手がける若いエンジニアたちを育てる教材として、かつての技術を伝える産業遺産として、535号機は静かなる活躍をしているのでしょう。
こちらの書籍が参考になります
※注記以外の写真はすべて筆者撮影
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