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現役を退いた鉄道車両の多くは解体されて処分されてしまいます。しかし、中には用途を失い、運用を離れ、廃車になっても解体処分されることを免れ、保存という形で現役時代の姿を残すものもあります。
保存という形で姿を残す車両の多くは、蒸気機関車ではないでしょうか。
かつて国鉄が進めた動力近代化は、蒸気機関車を早期に淘汰し、動力源を電気やディーゼル機関へ転換し、燃料費をはじめとした運用コストの削減と、列車の運転速度と車両の整備性の向上をねらいました。
この計画が進められたことで、それまでの主役だった蒸気機関車は次々と淘汰され、新たに登場した電気機関車やディーゼル機関車へその役割を譲って、姿を消していきました。それとともに、慣れ親しんだ蒸機を惜しみ、静態保存という形で各地に散らばっていきました。
静態保存という幸運を手にした車両たちも、その後の保存状態によってばらつきがありました。屋根を作ってもらえればかなり運がよく、屋根がなくても定期的にメンテナンスをしてもらい、現役当時に劣らない姿を維持しているものもあります。一方で、屋根もなく、メンテナンスはボランティアに丸投げであったり、そもそもそうしたボランティアすらなくろくにメンテナンスを受けることなく、朽ち果てる一方というものもありました。
また、保存した当初は屋根のあるところにあったものの、その後の計画が変わったりあるいは白紙になるなどして、日の目を見ることなく解体されていった車両もありました。
このように、保存といっても一言では語れない、それぞれの事情があります。
そのような中で、元三菱鉱業美唄鉄道4110形2号機は、屋根もない野晒しのままのいわゆる「露天保存」でありながら、非常にきれいな状態を保っています。1972年に美唄鉄道が廃止になって以来、ずっとこの地にあると思われるので、既に48年が経っています。これは、地元の美唄市が指定文化財としているので、公費でメンテナンスがされているためです。
さて、美唄(びばい)鉄道というと、あまりご存じない方もいらっしゃるかも知れません。かくいう筆者も、この4110形2号機を訪れるまで知りませんでした。
美唄鉄道は、三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)が北海道美唄市に開設した、総延長10.6kmの鉄道です。美唄市内で産出される石炭を、国鉄函館本線美唄駅を経て出荷するため敷設された専用鉄道でした。
1914年に開通した美唄鉄道は、炭鉱で産出される石炭輸送が主でした。そのため、多くの蒸気機関車が活躍し、鉄道省から払い下げられた7100形や9200形、さらには自社発注の国鉄9600形や4110形と同形機も在籍しました。
9600形は今さら説明をするまででもない、国鉄の貨物用蒸機としてはD51に並ぶ傑作機です。
一方で4110形はその構造からくる特殊機として有名でした。
と申すのも、動輪は5個なのです。
日本に於いて、動輪を5個もつ蒸機は、4110形の前身となった4100形と、好景気であるE10ぐらいしか見あたりません。
この動輪5個というのは、4110形(前身となった4100形も含めて)を開発した経緯が大きく絡んでいるのです。
そもそも4110形は、奥羽本線の隘路でもある板谷峠越えと、連続した急勾配を抱える当時に鹿児島本線(現在の肥薩線)のためにつくられました。どちらも補機として運用する子とが前提だったので、小回りの効くタンク機となりましたが、ボイラーは9600形とほぼ同様のものとしたことで、当時としては本線用の9600形や8620形に匹敵する、ボイラー圧力も12.7kg/㎤という性能をもちました。
そして、なんといっても動輪軸です。いまでいうところのE級は、蒸機としても極めて稀です。
動輪軸が増えるほど、粘着力は増します。その分、重量のある列車や勾配での牽引力は増します。板谷峠や勾配が連続する国見山地越えでは、牽引力が必要なので、こうした特殊装備になったと考えられます。
このような経緯で開発された4110形は、その高性能ぶりを遺憾なく発揮しました。しかし、動輪軸が5個という特殊機であるが故に、板谷峠や国見山地で活躍しましたが、板谷峠を迂回するルートが開通すると、次第に使われなくなっていきました。
国見山地越えに使われた4100形は、戦争中に奥羽本線の輸送量が激増したことに伴い、後継となるD51に後を託して、人吉から庭坂へ異動していきました。
ところで、三菱鉱業は美唄に鉄道を開通させるときに用意したのが、この4110形でした。国鉄籍を経ず、自社発注という形で3両が製造されました。特に、2号機は三菱造船製の蒸機としての第1号でした。
この特殊な装備をもつ4110形を、なぜ導入したのでしょうか。
あくまでも推測ですが、路線総延長が短いことでテンダー機ではなくタンク機の方が扱いやすいことが考えられるでしょう。それなら、他のタンク機でもよさそうですが、1014年当時に重量の嵩む貨物列車をもつ、新製できるタンク機は4110形以外は皆無でした。
小型機としては6760形もありましたが、動輪軸が2個しかなく、小型とはいえテンダー機であったことなど、三菱鉱業が求める性能とは違ったのでしょう。
こうして、4110形の自社発注機が美唄鉄道で走りはじめました。石炭の順調な産出により、美唄鉄道の貨物輸送量も増えていきました。輸送力増強のために、テンダー機である9600形を自社発注し、それでも賄えないと国鉄から4110形や9600形の払い下げを受け、炭鉱から次々と掘り出されてくる石炭を運び続けました。
しかし、そんな日も長くは続かず、戦後には国内の燃料需要は石炭から石油へと急速に転換が進んでいきます。石炭の需要が減るにつれて、一時は日本を代表する産業の一つでもあった採炭も衰退していきました。また、生産量を重視した無理な採炭が祟り、各地の炭鉱では相次いで重大事故が起きてしまい、多くの炭鉱労働者の命が失われてしまいました。
こうした背景もあり、国内の炭鉱は相次いで閉山となっていきます。
北海道各地にあった炭鉱も例外ではなく、美唄鉄道の生命線ともいえる三菱美唄炭鉱も1973年に閉山。主力である石炭輸送を失った美唄鉄道も、同じく廃止となり機関車たちも用途を失いました。
国鉄4110形と同形機としてつくられた美唄鉄道の4110形2号機は、この美唄鉄道があったところに、東明駅の駅本屋とともに残されました。
周りは緑が眩しい、草と木々が生い茂っているところ。そんな場所に、2号機はぽつんと佇んでいます。草や木に囲まれているとはいえ、まったく手入れがされてないかといえばそうではなく、通りがかりに簡単に立ち寄れる場所にありました。
そして、製造からほぼ1世紀が経とうとしており、しかも露天保存でありながら、比較的よい状態を保っています。これも、美唄市が文化財として指定しているからでしょう、定期的にメンテナンスが行われているようです。
それだけに、太陽に照らされたときは、蒸機特有の黒い塗装がギラッと光り、直線と曲線が機能的に混ざり合った車体にインパクトを与えていました。これで火が入って煙が出ていれば、現役といってもおかしくない状態です。
美唄鉄道の2号機の特徴でもある、ボイラーの脇に設置された筒状のものでしょう。空気溜めなのか、それとも蒸気関連のものなのかは分かりませんが、水タンク上部から伸ばされたランボード上に取り付けられています。
国鉄から払い下げられた4110形の中には、水タンクの上に同様のものが取り付けられているものもあったようで、こうしたあたりは同形機でも細かいところに異なるところがあようで、蒸気の魅力の一つではないでしょうか。
かつて、北海道を支えた炭鉱業も、今となってはほとんど姿を消してしまいました。例外的に稼働を続けている炭鉱もありますが、指折り数えるくらいしかありません。こうした例外を除いて、炭鉱が閉山をしていく度に、そこで働いていた人とその家族は街を離れ、こうした人たちを支えるためにあった商業施設もなくなり、そこで働く人と家族もいなくなりました。
炭鉱の閉山は、そこで栄えた街そのものを消滅させてしまったのです。
美唄鉄道も、このようにしてかつては沿線に栄えたであろう街がなくなりました。かつての線路沿いをいくと、既に廃墟になって久しい建物がいまだ点在し、産業が消えることの爪痕らしきものを見ることができます。
美唄鉄道4110形2号機も、この場所に佇みながら街が消えていく様をずっと見続けてきたのでしょう。そして、駅本屋は残されているとはいえ、線路はすべて撤去されてしまい、ここにかつて鉄道があったことは2号機が伝えるのみとなってしまいました。
とはいえ、日本でも貴重なE級の蒸機であり、かつて炭鉱業で栄えた北海道の歴史を伝える存在として、2号機は今日もこの静かな場所にその身を置いているのでしょう。
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