旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

さらば札沼線末端区間【1】 《鉄路探訪》かつての「赤字83線」から、都市圏輸送を担う電化路線へと進化する鉄道・札沼線

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 新型コロナウイルスの感染拡大は、日に日に収束とは真逆の方向へとひた走り続けています。4月16日の夜には、緊急事態宣言が全都道府県に広がりました。新たな感染者の増加と、犠牲者をこれ以上出さないための重要な措置です。

 それは北海道でも同様でした。とりわけ、北海道は全国でも早いうちから感染者が増え、北海道知事は道独自の「緊急事態宣言」を発し、被害が広がらないように必死でした。

 そのような中で、7都府県に出された最初の発令から1週間も経たないうちに、緊急事態宣言は全国に拡大しました。

 JR北海道では、札沼線の末端区間である北海道医療大学新十津川駅間の廃止を、当初は予定していた5月6日に予定していました。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、最終運行日を4月25日に前倒しになり、さらに4月24日に繰り上げ、地元沿線住民向けのラストランを4月26日に行うことにしていました。

 ところが、前述の緊急事態宣言の拡大を受けて、JR北海道は最終運行日を4月17日に繰り上げることになりました。全国からも注目を浴びていた札沼線は、新型コロナウイルスという見えざるものの影響で、突然の運行終了と廃止となりました。

 予想だにしない繰上による突然の終了は、筆者にとって、あの悪夢(?)のような2月28日の首相発表による「休校要請」と、令和元年度の「強制終了」を想起させるものでした。

 さて、惜別の余韻に浸る間もなく、1935年に全線開通を成し遂げてから85年の歴史に幕を閉じた北海道医療大学新十津川間を含む、札沼線の乗車記。かつて筆者が運営していたWebサイト「鉄路探訪」で公開した記事を、惜別の思いとともにご覧いただきたいと思います。

 

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その1(札幌-桑園)【1】

 11月も下旬に入り、ようやく平日に仕事を休める機会ができた。筆者の仕事はほとんどカレンダー通り、平日に有給休暇を取ることはなかなか難しい。第一、平日に休んだとしても、必要最低限しか人がいない職場で、一体誰が穴を埋めてくれるのだろうか。そんな仕事なだけに、平日に有給休暇を取れるというのは何とも嬉しい限りで、しかも翌日は祝祭日となれば2連休。ちょっと遠出もできるというものだ。
 そんなわけで、冬になりつつあるというのに北海道に出かけることにした。同僚からは、「何でこの時期に?」「何しに行くんだ?」と、それはもう半ば変人扱いもあったが、筆者がこのサイトを作っていることを知っている同僚は、「何線に行くんだ?」と笑顔で聞いてくれる。やっぱり、理解者がいるというのはありがたい。もっとも、帰京した翌日には筆者が主催運営を進める行事があるので、「ちゃんと帰って来いよ」と釘を刺されもした。
 北海道の鉄道というと、長く果てしないというイメージがある。そして、特急列車が中心で、普通列車は日に数本、そしてなにより時間がかかるとうものだ。もちろん、幹線と呼ばれる函館本線でも、電化されているのは函館付近と小樽から札幌を経て旭川までの区間。あとは非電化なので気動車による運転だし、なにより人口過疎地域が多いが故に、列車の需要は少ないから2~3時間に1本という運転頻度が実態であり、その他の路線に至ってもだいたい似たような感じであり、どちらかといえば都市間輸送が鉄道の大きな役割だといえる。
 ところが、北海道の中心地である札幌近郊はそうではない。人口約190万人を抱える札幌市をはじめとするこの地域では、鉄道も電化されているので気動車ではなく電車による高頻度運転が実現している。そして、空の玄関口である新千歳空港を結ぶ快速列車は毎時2本が運転されるなど、大都市圏の鉄道の様相を呈している。
 そんな札幌近郊区間にあって、いまだ非電化の路線が存在している。それが今回訪れる札沼(さっしょう)線だ。といっても、札幌駅をはじめとするJR北海道の案内は「学園都市線」という名称で、実際に駅の表示や乗換の案内放送もすべて「学園都市線」に統一されている。その愛称にあるように、札沼線の沿線はとにかく学校が多く存在するため、その利用者は学生が多い。そして朝夕のラッシュ時には、気動車のみで組成された6両編成で運転される列車があり、今日
、こんな長大編成の気動車による普通列車は、この札沼線でしか見ることができない。その札沼線もも、2012年春には電化工事が完成することで、気動車による運転から電車へと変わっていく。即ち、この2011年が札沼線非電化最後のシーズンとなるわけで、そのような理由からも今回、実に3年ぶりに北海道を訪れることにしたのである。

 札沼線はいまでこそ、札幌近郊区間に入る路線で、前述の通りに朝夕のラッシュ時には6両編成で組まれた列車も走るほど、需要の多い鉄道路線だ。しかし、その歴史を辿ってみると、決して現在のように旅客輸送の需要が多かったわけでもなく、むしろ赤字ローカル線という印象が強い路線だった。
 1960年代に国鉄赤字ローカル線の積極的な廃止として打ち出した「赤字83線」に札沼線は名を連ねていたし、第二次世界大戦中には「不要不急線」として名をあげられ、石狩当別-石狩沼田間が休止となり、線路を撤去し道路に転用されてしまう。とにもかくにも、廃止や休止といった言葉と背中合わせの歴史だといえる。
 札沼線の開通は1931年である。当初は北側の石狩沼田から中徳富(現在の新十津川)間を開通させ「札沼北線」として開業した。その後、南側は1934年に桑園-石狩当別間が「札沼南線」として開業。南北両方からの延伸を重ね、1935年に石狩当別浦臼間の開業によって全線開業となり、名称も「札沼線」と改めた。戦時中は前述の通りに不要不急線として指定され、1943年から1944年にかけて石狩当別-石狩沼田間が休止。線路を撤去の上、道路に転用されてしまっている。全線開業から僅か9年しか経っていない頃の出来事だった。
 戦後は1946年には、さっそく石狩当別浦臼間が再開し、1956年までに全線が復活している。しかし、復活の時期が遅かったことと、折からのモータリゼーションの進展により輸送需要は伸び悩んだ状態が続き、ついには「赤字83線」に名を連ね、1972年には最初の開業区間であった新十津川-石狩沼田間が廃止されてしまう。この廃止区間は、1つの路線としては最長距離であった。
 部分廃止後も札沼線はしばらくの間は、需要も伸び悩んだ状態が続き、決して楽観できる状態ではなかったといえる。かろうじて、沿線にある大学の学生需要に支えられているような状態だったが、1980年代に入り大きな転機が訪れる。
 札幌市北部のニュータウン開発が進められ、沿線の宅地開発がされると、札沼線はまさにニュータウンの重要な交通機関となった。国鉄の分割民営化直前の時期から民営化後にかけて、桑園-あいの里公園間にはそれまで4駅しかなかったのが10駅に増え、駅間距離も東京の山手線並みになるなど大きな変貌を遂げる。そして、輸送力強化もされて桑園-あいの里公園間は複線化され、投入される気動車も輸送需要に応える性能と仕様を備えたものを投入。都市鉄道としての役割を担うまでになった。
 その札沼線も、いよいよ電化工事の完成により、都市鉄道としてさらなる発展が期待されているわけだ。

f:id:norichika583:20200417225343j:plain▲雪が舞う中、札幌駅へと進入するキハ201系気動車。非電化区間がほとんどのJR北海道にあって、特に札幌圏のスピードアップによる速達性の向上を目指して製造された高性能気動車で、その性能は電車と同等である。日中は札沼線の運用にも入っていた。(2011年11月22日 札幌駅 筆者撮影) 

 

(この記事は、筆者が運営したWebサイト「鉄路探訪」に掲載したものを、加除訂正の上再掲したものです。取材日は2011年11月22・23日。記事の内容は取材当時のものです。)