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東急電鉄といえば、いまや当たり前になったステンレス王国を早い時期から築いていました。日本初のオールステンレス車である7000系を筆頭に、数々の新機軸を取り入れた車両を世に放ち続けていました。
そんなオールステンレス車で満たされていたのは、東横線と田園都市線といった本線系統での話。東急電鉄にとって、東横と田都は看板路線だったので、常に新しい車両で沿線に住む利用者の満足度を上げなければなりませんでした。
そりゃあそうでしょう。何しろ高級感満載で沿線の不動産を分譲したのですから、顧客となった住民は「東急沿線に住む」というステータスがありました。東急電鉄もそれをねらって、それなりのいい値段で不動産を分譲していましたし、系列の小売業でもそのステータスに見合った店舗展開をしていまいた。
かくして、東横線と田園都市線には、ピカピカのオールステンレス車が軽快に走っていたのです。
一方、「目蒲三線」と呼ばれる目蒲線と池上線、そして大井町線には、東横線と田園都市線から新車の導入によって押し出されてきた中古車両で占められていました。ただ、大井町線は二子玉川園駅(→二子玉川駅)で田園都市線と合流する関係から、中古は中古でもステンレス車が中心でした。
しかし、目蒲線と池上線はそうではありません。
ピカピカのステンレス車ではなく、グリーン一色に塗られた鋼製車で埋め尽くされていました。いえ、鋼製車でも5000系のような高性能車ならまだ良かったかも知れません。5000系は製造された数が少なく、これけでは目蒲・池上線の需要を満たすことは不可能でした。
では、どうしたかというと、戦前につくられた旧式の吊り掛け駆動である3000系を走らせていたのでした。
さて、この写真は1987年の撮影です。この年は、国鉄が分割民営化されて新会社移行しました。その国鉄や新会社では、吊り掛け駆動の電車などほとんどを淘汰し、よほど特殊な事情でない限りは新性能の電車を走らせていました。
もちろん、これらはすべて戦後生まれ。
ところが、この時になっても目蒲・池上線には、戦前生まれの、国鉄でも淘汰された吊り掛け駆動の電車がこのように主力として走っていました。
この頃、目蒲・池上線を走っていたグリーン塗装の3000系は、デハ3450を筆頭に、デハ3500、デハ3650。制御車のクハ3850や中間車のサハ3370などとともに、3両編成を組んでいました。
何故、こうした古い電車が使われ続けたのか。
デハ3450をはじめとするこの当時の3000系は、もともとのつくりが頑丈だったことと、電装品も戦時・戦後直後の粗悪なものではなく、戦前の優秀品で揃えられていたからだといいます。
戦後生まれのデハ3700は、譲受側である名鉄の事情で一点買いとなって早々に東急線からは消え、デハ3800は2両だけの少数車種であったために、十和田観光電鉄に譲渡されてしましました。加えて、18m級のオールステンレス車は7000系と7200系だけで、東横線の日比谷線直通運用と大井町線での運用を満たすだけで精一杯。結局、古参であるこれらの吊り掛け車が闊歩することになったといいます。
もっとも、この写真を撮影した頃は、3000系も終焉が近づいていたようで、翌々年の1989年にはほぼ全廃されました。
ところで、この写真に写るデハ3508。よく見ると、何か変です。車体更新で張り上げ屋根になり、前灯と尾灯は窓下に左右対象で配置されているので、旧式車とは思えない姿ですが、ウインドシルとヘッダーもないので余計にすっきりとした出で立ちです。加えて、デハ3500は非貫通なのですが、デハ3508は貫通扉を備えています。
これは、戦時中に火災を起こして焼損してしまい、制御車として仮復旧。そして、戦後になり銀色に赤帯を巻いた試験塗装を施された後に車体更新が行われたときに、ノーシル・ヘッダーで貫通扉のある車体になったため、デハ3500の中でも異色の姿となっていたのでした。
いずれにしても、戦争中に火災に遭わなければ、こうした姿にならなかったのかも知れません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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