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先日、1984年頃の多摩川園駅から発車する、赤帯のない時代の東急8000系の話題をお届けしました。
今回は、同じ日に撮影した営団3000系をご紹介します。
この頃の東横線は、各停と急行は渋谷駅ー桜木町駅間で運転され、多くが20m級で側扉を四個持つ大型車でした。各停は8000系と一部の8500系が、急行は当時新製されたばかりの8090系が宛がわれていました。
この他、営団地下鉄日比谷線と相互乗り入れをしていたので、日比谷線直通運用の7000系と、営団から乗り入れてくる3000系があり、中目黒駅ー日吉駅間で運転されています。
東急から日比谷線に乗り入れる7000系は、日本初のオールステンレス車として名高い存在です。一方、営団3000系はご覧の通り7000系とも互角に思えるステンレスの外板を身に纏っていますが、骨組みとなる構体は従来のスチール鋼でした。
いわゆる「セミステンレス車」と呼ばれる構造で、オールステンレス車は他の鋼材に比べて加工が難しく、コスト面でも割高になります。また、オールステンレス車は特許技術を用いて製造していたために、発注できる車輌メーカーが限られてしまいます。当時は国鉄と同様の公共企業体であったことから、一社だけに発注することができません。そこで、どの車両メーカーでも製造ができるということで、セミステンレス構造の車両をつくっていたのでした。
そして、東急7000系が直線的で機能優先といったデザインであったのに対し、営団3000系は全面にまで入ったコルゲートと、上部は曲線を多用した柔らかいデザイン、そして同じステンレスでも光沢のある材質で一際輝いて見えました。
ところが、1988年頃から日吉駅の改良工事が始まったために、折り返す車両を留置するための引上線がつかえなくなったため、直通運用は菊名駅まで延伸されます。
筆者も何度となく元住吉駅から菊名駅まで3000系に乗りました。7000系の台車は軸ばねがないパイオニアⅢを装備していたのに対して、3000系は軸ばねはアルストム式かミンデンドイツ式。枕ばねもベローズ式の空気ばねを装着していたので、乗り心地は断然3000系の方がよかったのを覚えています。
ただ、高速性能はというとかなり厳しかったというのが、乗っていた当時の印象です。日吉駅を出て綱島までの間は最もスピードが出せるのですが、日吉駅から下り勾配をおりて地平を走る時、運転士はマスコンを力行に入れたままのことが多かったのです。そして、3000系はといえば90km/hほどが出たところで頭打ちになり、それでもモーターを唸らせて加速しようとはしているものの、それ以上は上がらずに綱島駅へ滑り込むといった具合でした。
3000系は駅間が短い地下鉄での高速化を目指して、起動加速度は4.0km/hと加速性能はよかったです。ただ、設計上の最高運転速度は100km/hであったので、高加減速性能を重視したものでした。それ故に、地上においての高速運転では無理があったようです。
そして、1080年代も終わり頃には、多くの車両が冷房化工事を施されるか、あるいは冷房を装備した新車に置き換えられつつありました。8月に3000系に乗ると、座ったところによっては窓から猛烈な熱風が入ってきました。
夏休みにデートでこの電車に乗ったとき、冷房もなく窓から熱風も入ってきたので、それはもうただでさえ熱いのが余計に暑くなって、ヘロヘロになったのを思い出します。
抵抗制御だったので、抵抗器から出てくる熱風が車内を「温めて」いたのです。チョッパ制御やVVVFインバーター制御などまだ実用化されていない時期につくられたために、こうした放熱は避けられませんでした。
とはいえ、高度経済成長に始まる旺盛な需要を捌くため、逐次増備をしながら通勤輸送を支えた3000系。次代になる03系もすべて現役を退いていき、長野電鉄に譲渡された僅かな生き残りたちも、2022年までにすべて現役を退き、東京メトロから譲り受けた03系に置き換えられると発表がありました。
30年以上前に起きたことが、長野でも繰り返されるとは「歴史は繰り返す」の証左なのでしょうか。いずれにしても、新型コロナが収束した暁には、長野に出かけて、若かりし頃を思いだしてみたいものです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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