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「海峡下の電機の系譜」と題し関門トンネルを走り抜けた電機たちをふり返るシリーズ構成のお話も、いよいよ関門専用機として設計された世界初の交直流機EF30が登場いたします。
こちらも前後編に渡る構成となっておりますが、どうぞ最後までお付き合いいただけると嬉しい限りです。
4.世界初の量産交直流両用電気機関車
4-1 九州島内の交流電化
第二次世界大戦後、国鉄の輸送量は年を追うごとに増加していき、やがて逼迫していくようになります。輸送力の増強は、国鉄にとって喫緊の課題で様々な策を講じてこれに対応しようとします。
しかし、輸送力を増強しようとしても、戦争中に酷使された車両たちはみな疲弊し、中には戦時設計という乱造粗悪なものもあり、設計通りの性能を出せないならまだしも、あまりにも簡略化し過ぎたために事故を起こすなど安全面でも課題が大きく、言うほど簡単ではありませんでした。
それに追い打ちをかけるかのように、戦後の日本では燃料事情も芳しくありませんでした。
この頃の鉄道の主役は蒸機でした。この蒸気が走るための燃料である石炭の質が悪く、燃えはするが火力が弱いために思ったように力の出せることが難しくなってしまったのでした。やむなく重油と一緒に燃やすことで火力を得ようと、重油併燃装置を取り付ける蒸機もでましたが、それでもすべての車両に施したわけではありませんでした。
また、電化工事も進んではいたものの、それは首都圏や関西圏の通勤路線と、東海道本線などの輸送量も多い一部の幹線での話で、地方の幹線や支線区では相変わらず蒸機による列車が運転されていたのです。
しかしこのままでよいはずもなく、国鉄はこれらの課題を解決しなければなりません。
そこで、動力近代化計画の名の下、幹線の電化や支線区の気動車導入でによる計画の推進がされていきます。
気動車の導入も、その実用化までには紆余曲折あったものの、なんとか実用に達することができました。
一方、電化の方はといえば着々と工事は進められてはいたものの、この当時はすべて直流電化だったために、建設コストが膨大になることが問題になっていました。ましてや「本線」を名乗る幹線でも、都心部と地方ではその役目も異なり、何より輸送量の違いは大きいものです。
多額の費用をかけたとしても、それが十二分以上に効果を発揮しなければ、それは費用対効果の面では問題です。
そこで、建設コストが直流電化に比べて安く抑えることができる交流電化が注目されました。ただ、交流電化をしようにもその技術やノウハウが乏しかったので、東北本線でED90やED91といった交流電機の試作車による試験を経て実用化にいたり、地方幹線の多くは交流電化による電化を推進することになりました。
この国鉄の方針から、九州島内の幹線はすべて交流20000Vによる電化を推進することになります。
しかし、九州島内を交流電化で進めるにあたって、一つだけ問題がありました。
それは関門トンネルです。
山陽本線下関-門司間は、関門トンネルによって結ばれていました。この区間は、開業当初から電化されていましたが直流1500Vでした。下関駅構内はよしとして、門司駅構内も電化はされていたものの、すべて直流による電化でした。
九州島内を交流電化にすると、門司駅と隣接する門司操車場だけが直流で残ってしまうことになりますが、それでは車両運用でも設備の保守でも問題があります。鹿児島本線を交流電化するのであれば、門司駅と門司操車場も交流電化にしなければなりません。
しかし、前述のように開業当初から直流電化された関門トンネルがあり、ここを専用機としてEF10が運用されていたので、この問題を解決する必要がありました。
そこで、門司駅と門司操車場構内は交流電化に切り替えるとともに、関門トンネルの坑口にデッドセクションを設け、EF10による海峡越えを交直流両用の電気機関車に置き換えることになりました。
こうした方針に沿って登場したのが、関門トンネル専用機の二番手である交直流両用電気機関車であるEF30でした。
4-2 世界初の量産交直流機
EF30による海峡越えが決定した頃、交流電機の技術はめざましい進歩を遂げていた頃でした。
そもそも交流電機は、架線からパンタグラフを通して得る電源こそ交流20000Vですが、その電機をそのまま動力にすることはしません。架線から得た高圧電機を変圧器で電圧を下げ、それを直流に変換して直流電動機を回す仕組みです。
黎明期の交流電機は、直流へ変換する整流器に水銀整流器を使っていました
水銀整流器は真空管の一種で、真空のガラス管の中に水銀を入れて、それに電流を流すことでアークを発生させることで直流に変換していました。電気的にも優れた性能をもつ反面、真空管であり、その中に液体の水銀を入れるという構造の面で、振動に弱いという弱点がありました。
鉄道車両は走り出すと、どうしても振動は避けることができません。そのため、水銀整流器は鉄道車両に載せて使うにはあまりにも不向きで、初期の交流電機はこのために故障が頻発していたといいます。
しかし、パワーエレクトロニクスは年を追うごとに発達していき、振動に左右されずに直流へ変換できるシリコン整流器が開発されました。
EF30はこのシリコン整流器を装備することで、振動に左右されず安定した能力を発揮することができるようになったのです。しかし、水銀整流器よりも扱いやすいとはいえ、この当時は開発されたばかりなので、高圧大電流の交流電流を長時間にわたって変換することは難しかったようです。
そこで、EF30は交流区間を門司駅または門司操車場構内を走行することを限定させることで割り切り、シリコン整流器の能力を超えない範囲に収めることにしました。そのため、EF30は交直流両用であるものの、交流区間での性能は直流区間と比べると極めて低くなり、直流区間の定格出力1800kWに対して、交流区間では半分にも満たない450kWになりました。
その出力に比例して、最高運転速度も直流区間では85km/hで走行できるのに対して、交流区間では僅か35km/hしか出すことができません。これは、本線上で注意現示(色灯式信号機では黄現示)の45kn/hにも満たない速度なので、構内走行に特化した性能といっても過言ではないでしょう。
とはいえ、交流区間での運用には大きな制限がついているものの、EF30は世界でも最初に量産化された交直流電機だったのです。
(海峡下の電機の系譜【Ⅲ】 世界初の量産交直流機EF30《後編》へつづく)
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