前回からのつづき
そのルーツは第二次世界大戦の最中である1942年にまで遡ることができます。
この年、本州と九州を直接鉄道で結んだ関門トンネルが開通しました。それまで東京と下関を結んでいた第3・4列車が、関門トンネルの開通により鹿児島まで運転が延長されて、急行第7・8列車となったことで、「はやぶさ」の始祖が走り始めたのです。急行第7・8列車は、それまでは列車番号も異なっていましたが、この第3・4列車は特急「櫻」として運転されていました。しかし、戦時中であるため不要不急の旅行を抑える目的から、これを機に急行へと格下げされてしまいます。やがて、戦局がいよいよ厳しくなっていき、1945年には運転区間を再び下関まで短縮され、さらには運行そのものが中止されてしまいます。
戦後になり、再び東京ー鹿児島間を結ぶ列車として走り始めたのが、急行「きりしま」でした。この列車の設定により、再び夜行列車が東海道、山陽、そして鹿児島線を駆け抜けていきます。
この「きりしま」は姉妹列車として「筑紫」(つくし)が1950年のダイヤ改正で設定されました。姉妹列車というのはあまり聞き慣れない呼称ですが、「きりしま」を補完する存在として、新たに設定された列車といっていいでしょう。
当時「きりしま」は東京を12時35分に発車すると、大阪には22時16分に到着。さらに山陽本線を夜行で走り続け、門司には翌日9時5分着。博多には10時44分、終着の鹿児島には夕方の18時18分着と、実に29時間43分かけて走破していました。
ところが、「きりしま」を補完する「筑紫」はもっと長い時間走っていました。東京を21時30分に発車し、東海道を夜行として走り続けて大阪には翌日8時30分に到着。さらに山陽本線を西に進んで門司には夜20時35分に到着。さらに博多には22時26分に到着し、鹿児島本線を再び夜行で南下していき、終着の鹿児島には翌5時48分に到着するという、1列車で夜行2回、始発駅から二度も日付が変わってしまい、32時間18分という途方もない時間をかけているという、今では考えられない長時間列車でした。
1951年には東海道本線の全線電化が完成し、いよいよ電機が長距離を牽くようになり、所要時間も僅かながら短くなっていきます。
一方、1956年のダイヤ改正で「きりしま」は「霧島」と名を改められましたが、運転区間の変更など大きく変わることはありませんでした。一方の「筑紫」は、列車名を「さつま」に改められ、「筑紫」の名前は新たに設定された東京ー博多間を結ぶ急行列車として運転されました。名を改めた「さつま」はというと、「筑紫」時代と変わらず二夜に渡って走り続け、所要時間も31時間を超えるという長時間運転は変わることはありませんでした。
やがて1958年のダイヤ改正で、31時間超もかけて東京ー鹿児島間を走っていた「さつま」が特急へと格上げされ、その名も「はやぶさ」となります。といっても、まだこの時点では20系客車は「あさかぜ」のみしか登場しておあず、旧型客車で組成された編成は変わることはありませんでしたが、三等車座席車と三等寝台車は、当時で最も新しい軽量客車である10系を中心に組成され、二等座席車(スロ54)と二等寝台車(スロネ40)、そして食堂車(オシ17)を連結するという、後の20系へとつながるような陣容になりました。
もっとも、この編成は前年まで「あさかぜ」として使われていたもので、1958年のダイヤ改正で20系客車へ置き換えられたことにより転用されたのでした。とはいえ、当時の夜行特急列車としては望むべくもない接客設備を備えていたのはいうまでもなく、加えて特急となったことで、運転時間も二昼夜31時間超から、一気に22時間50分にまで短縮され、速達性は大幅に向上していきました。
そして1960年には、ついに「はやぶさ」も10系客車から真新しい20系客車へと置き換えられ、後に「ブルートレイン」と呼ばれる列車群の仲間入りをします。それとともに運転区間も東京ー西鹿児島間へと改められ、1駅とはいえ運転距離も僅かに短くなったのです。
©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, ウィキメディア・コモンズ経由で引用
1960年に20系へと置き換えられた「はやぶさ」は、従前の編成とは異なり統一された同じ構造、同じデザインの車体をもつ車両に揃えられ、それまでの雑多な車両たちで組成されていたのと違い、とても美しい編成美を備えました。
とはいえ、「あさかぜ」とは異なり、一等寝台(後のA寝台)は1人用個室のとプルマン式開放寝台を備えたナロネ22が連結されていました。個室寝台を備えた車両を連結したあたりは、当時、長距離移動をする場合の第一選択が鉄道だったこともあるようで、とりわけ好むと好まざると個室利用の頻度が多い政治家や財界人など、いわゆる「名士」と呼ばれる利用者が多かったのでしょう。
緩急車も二等座席車のナハフ20とナハフ21が連結されていました。また、一等座席車であるナロ20も連結されているなど、この当時は寝台特急といえどもすべてが寝台車ではなく、僅かに座席車も残されていたのです。
1961年になると、「はやぶさ」を補完するために「みずほ」が登場します。この頃の東京対九州特急は盛況を極めていたそうで、多くの人が「はやぶさ」を利用していた結果、なかなか切符が取れない状態があったそうです。そのため、「はやぶさ」から溢れた利用者を取り込むべく、「みずほ」の運転が決まったとか。いずれにしても、東海道・山陽、鹿児島の各線を多くの夜行列車が行き交うという、とても賑やかな時代だったといえるでしょう。
その後、「はやぶさ」はしばらくの間、大きな変化はありませんでした。1964年の東海道新幹線の開業で、東海道本線の長距離列車の多くが新幹線への移行を促すために廃止になるなど激変したのに対し、東京対九州間の夜行列車群はそのまま存続する列車が多かったのです。
「はやぶさ」を補完する形で登場した「みずほ」は、大分発着編成を「富士」として分離させると、「みずほ」は熊本までの単独運転となり、大分発着編成を博多で増解結する付属編成へと変えました。
1968年には博多で増解結していた付属編成を、長崎まで運転区間を延長します。列車の分割併合は鳥栖で行うことになるとともに、この長崎発着編成は「あかつき」と共用とすることで、延伸と運用の合理化が図られました。
1972年には「みずほ」が20系から14系へ置き換えられたのに対して、「はやぶさ」はこの時点では20系のままとされました。同時に「さくら」も14系に置き換えられたことで、余剰となった20系編成の中からナロネ22を「はやぶさ」の西鹿児島発着編成に連結しますが、この年のうちに運用変更によってナロネ22は、開放寝台のナロネ21に変更され、「はやぶさ」から個室寝台が一時的に消滅したのでした。
登場当時は「豪華な走るホテル」とまでいわれた20系も、時とともに老朽化/陳腐化していきます。二等寝台→B寝台は幅550mm、三段式寝台と10系と大きく変わらない設備のままでした。筆者もさすがにこの手の寝台に寝たことはありませんが、通勤形電車の座席とあまり変わらないサイズの幅なので、揺れる車内で体を横にしたとしても、「ぐっすりと寝る」というのにはほど遠く、文字通り「仮眠を取る」というレベルだったのではないかと想像できます。
《次回へつづく》
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