旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【後編】

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前回のつづきから

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 分割民営化後、「はやぶさ」にはさっそく利用者を増やすべく、改善策が施されました。それまでB寝台は開放式が当たり前でしたが、利用者の意識が変わってきたことで、個室の需要が高まっていたのでした。そこで、1人用B個室寝台「ソロ」となるオハネ25形1000番代が連結されます。

 しかし、寝台特急の凋落はその一途を辿り続け、1990年のダイヤ改正では、鹿児島本線内で昼行の特急「有明」に追い越されるというダイヤが組まれました。まさに、歴史のある「はやぶさ」にとっては屈辱的とも言える措置で、このダイヤ設定のために所要時間が僅かに延びてしまいます。そして、このことは「はやぶさ」を引き継いだ旅客会社が、必ずしも寝台特急を重要視していないことの表れでもあり、その姿勢はこれ以降、顕著になっていきました。

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 そして1993年のダイヤ改正では、下り「はやぶさ」が鹿児島本線を走行する時間帯が、ちょうど福岡都市圏内を通勤時間帯にかかるため、足が遅く通勤客が利用できない寝台特急を運転するのはダイヤ上でも、営業施策上でもネックであったことから、東京の発車時刻を「富士」と差し替えました。このため、「はやぶさ」は1時間15分も繰り下げることになり、終着の西鹿児島には15時10分着という、もはや通しで乗ることで何らメリットもないダイヤ設定になってしまいました。ただでさえ、22時間近くもかけて走る列車なのに、到着時刻が午後も半ばが過ぎた15時過ぎでは、使い勝手が悪いどころかわざわざそれに乗る意味を見いだせないといえるものです。当然ですが、こうしたダイヤ設定をしたために、ますます利用者は減少の一途をたどるほかなかったのです。

 そして1997年には運転区間を熊本まで短縮し、それまで「富士」に代わって日本一長い距離を走る列車の座を、「さくら」に譲ってしまいます。さらには、1999年に「はやぶさ」は「さくら」と併結する措置がとられ、栄光の日本最長を走り続けた寝台特急は、もはや昔日の姿を失っていたのでした。

 2005年には併結相手となった「さくら」が廃止。今度は「富士」を併結相手としますが、それまで「はやぶさ」「富士」ともに24系25形を使用してきました。ところが、電源車を使う「電源集中式」であったため、分割併合をするとなるとどちらの編成にも電源車を連結しなければなりません。これでは非効率的なので、使用する客車をどちらも14系に置き換えました。24系25形よりも若干古い車両でしたが、門司で分割併合を行うので14系の方が向いていたのです。そして、どちらも利用者が少ないので、新しい車両を投入するとか、あるいは改造をするということは考えず、手持ちの車両で対応するほかなかったのでした。

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©Tennen-Gas, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

 東京対九州間の寝台特急が、とうとう「はやぶさ」と「富士」だけになり、しかも最盛期はどちらも15両編成を組んだ堂々たる列車だったのが、その最終期は6両編成にまで減らされ、しかも東京ー門司間は1本の列車とまとめる併結運転と、昔日の面影の欠片もない姿に、往年からのファンは絶句したことでしょう。かくいう筆者も、EF66に掲げられていた「はやぶさ」「富士」のコンビネーションのヘッドマークを見て、語る言葉をなくしたほどでした。

 そして、2009年3月14日のダイヤ改正で、その長い歴史に終止符が打たれました。「はやぶさ」はこの日野運転をもって、「富士」とともに廃止となり、戦時中の第7・8列車、そして急行「きりしま」「さつま」などから発展して走り続けてきた「はやぶさ」はその役目を終えたのでした。

 

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©Tennen-Gas, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で引用


  戦前の第7・8列車を嚆矢とし、戦時中に一時運転が中断したものの、戦後に夜行急行列車として復活。31時間以上もの長時間を走り続けるという、あまり例を見ない運転形態をとりながらも、東京と遠く南西の地である鹿児島を結んで多くの人々を運びました。そして特急「はやぶさ」として生まれ変わった後にもまた、20系、24系、そして14系とすべての国鉄形寝台車で運転され続け、国鉄末期にはロビーカーを連結したり、民営化後には個室B寝台を導入したりするなど、できる限りの集客施策を行いました。

 しかし、時代は「はやぶさ」にとっては厳しくなる一方で、新幹線の東京ー博多間全線開業、航空運賃の自由化などによる運賃の低廉化は、主要な顧客でもあったビジネス客にとって、移動手段の選択肢から外れていきます。

 そして国鉄時代、それも1970年代初めにつくられた客車は老朽化・陳腐化が進み、もはや高価な寝台料金を支払ってでも利用しようとするきっかけを失い、同じ24系25形で運転されながらも個室寝台を中心に据え、「非日常」を演出した豪華な設備を誇った「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」とは対象的に利用者の減少に歯止めはかかることはありませんでした。

 このように、時代の流れから取り残されてしまったかのような存在になった「はやぶさ」は、東京対九州の寝台特急群の中で「富士」とともに最後まで粘り続けたものの、その運命も尽いてしまい過去のものへとなってしまいましたが、鉄道が長距離輸送の主役であった時代も含め、日本でも有数の長距離をほぼ一日かけて走ることで多くの利用者を運んだことは、「はやぶさ」の功績の一つかもしれません。

 今日、「はやぶさ」の名は、東北・北海道新幹線の列車名として受け継がれています。それは、ブルトレ時代の「はやぶさ」と同じく、長距離を移動する乗客を安全で正確に運ぶという役割は、場所を変えても健在と言っていいでしょう。

 

 今回は、予定よりもはるかに長いお話になりました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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