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鉄道で貨物を運ぶと一言に言っても、運ぶ物によっては様々な苦労があります。中でも、物資別適合車と呼ばれる貨車たちは、顧客である荷主と託送される貨物によって、手持ちの貨車やコンテナで済むケースと、自社専用の車両を導入して運用する私有貨車を充てるケースがあります。
ところが、国鉄時代に誕生した車運車であるク5000は、荷主の要望に応えながらもその製造と保有は国鉄が担ったという、数多く貨車の中では極めて稀なケースであるといえるでしょう。
ここでは、国鉄からJR時代に数多く運用されていた貨車であるク5000にスポットをあててみたいと思います。
◆車を運ぶことは大口顧客を得ること
工場で作られた新品の自動車。その新車を購入するのは、必ずしも自動車工場の近くに住んでいる人とは限りません。当たり前の話ですが、モータリゼーションがこれだけ進展した今日の社会において、どこに住んでいても欲しい自動車を買うことができます。
そのために、自動車会社は様々な方法で、できる限り多くの製品である新車を全国各地へ届ける努力をしてきました。今日では、顧客からの受注、製造、納品(納車)まで、個別のオーダーに応じることができるようにシステムが整備されていますので、製造工場では必要以上の製品をつくることがないように調整されています。そのため、工場から出荷されるときは、かつてのように大量に発送することがなくなり、必要な台数分を運ぶことができるキャリアカーを用いることがほとんどです。これも、モータリゼーションが進展した成果といえるでしょう。
しかし、その昔は高速道路網が発達の途上であったことや、キャリアカーのような大型の自動車の性能が今日ほど高くなかったこと、さらにそれを担うドライバーもそれほど多くはいなかったことなどから、鉄道で一度に大量に運ぶのが一般的でした。
ところが、戦後間もない頃は、これだけの大口顧客であったにもかかわらず、新車輸送用の貨車はすべてユーザーとなる自動車メーカーが保有する私有貨車であることが一般的だったといいます。
例えばトヨタはシム1000を、ダイハツはシム2000を、三菱重工(後に三菱自動車へ分社)はシム3000を、日産はク300とそれぞれ独自に専用の貨車を作り、国鉄線上で運用されました。いずれも試作の領域をでることができなかったため、量産には至りませんでしたが、新車輸送の黎明期においては貴重な貨車でした。しかし、少数形式であること、積載できる自動車が軽4輪クラスという小型自動車または軽自動車を数台と、かなり限定されていたため、本格的な自動車運搬船用の貨車が望まれていました。
そこで国鉄は、自動車メーカー各社の要望に応えるため、新たな車両としてク9000を製作しました。このク9000を開発するにあたって、国鉄は自動車メーカー各社の意向を可能な限り反映させました。これはメーカーごとに運搬する車種も異なり、自動車のサイズもそれぞれに違っていたので、可能な限り汎用的に使えるようにすることと、何よりメーカーが鉄道で運びたい自動車に合わせるようにしたことは、いかに国鉄が自動車輸送に力を入れようとしていたかが伺われます。
試作車であるク9000は、東小金井−笠寺間で運用をはじめました。このとき、新車を載せての試運転には、プリンス自動車(後の日産自動車)と三菱重工(後の三菱自動車)が協力しましたが、この二社は自動車の鉄道輸送において後年に至るまで大口顧客として鉄道を利用し続けることになります。
ク9000での自動車輸送の試験が良好な結果を得られたことから、1966年のダイヤ改正から本格的に量産車による新車輸送を始めることになり、ク9000の量産車として登場したのがク5000でした。
ク5556には、上段と下段に分かれた構造で、1両でいくつもの任務をこなす用に作られた。(©<シャムネコ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commonsより引用)
ク5000は車体の上段と下段に、それぞれ自動車を載せることができる荷台を設けられました。荷役は自走式で、取り扱いを実施する駅には専用の荷役設備を設置し、スロープを通って貨車の中へと「入って」いく手法が採られました。車両と車両の間には必ず連結面がありますが、ここには積荷である自動車が自走で通過することができるように、跳ね上げ式の踏み板が設けられ、荷役時にはこの踏み板を下ろして車両間を通れるようにしたのです。
また、上段の荷役には、航空機のタラップに似た専用の昇降用の設備も設置されていました。これは、油圧式の機械で斜路を昇降させるというもので、荷役設備としてはかなり大掛かりなものだったようです。
《次回へつづく》