旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 伝統の九特「富士」それは歴史の中に【2】

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〈前回からの続き〉

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 東海道山陽線を走破する、一等車と二等車で組成された特別急行列車に「富士」という愛称がつけられた後も、社会的に地位が高い人が乗客であることには変わりありませんでした。

 1926年に山陽線海田市駅付近で起きた脱線転覆事故では木造客車だけで組成されたこともあり、多くの犠牲者を出してしまいましたが、これに前後して、当時の鉄道省は木造客車の構造強度の弱さから、鋼製客車への置換えを計画していました。

 こうした苦い経験をもっている「富士」には、いち早く鋼製客車に置き換えられていき、1929年からは「富士」のために鋼製客車を新造、順次置き換えられていきました。この時、特別急行列車の象徴ともいえる一等展望車も製作され、内装も「白木式」と「桃山式」と呼ばれる二つのタイプが作られます。どちらも豪華絢爛という言葉があてはまるものだったようですが、これらの製造により急行第7・8列車と共有していた展望車も、再び「富士」専用となって全区間で連結されるようになりました。

 1934年になると、列車の速達性の向上を目指して建設が進められていた、熱海-三島間に丹那トンネルが難工事の末に完成しました。それまで現在の御殿場線東海道本線で、箱根越えをするために急勾配を延々と登り続けるために補助機関車の連結が必要で、所要時間もかかる隘路であったのが、これによって支線扱だった国府津-熱海間が本線へと格上げとなり、「富士」の速達性も大いに向上しました。

 この丹那トンネル開通を機に、「富士」には三等車が連結されるようになり、ようやく庶民(といっても、それなりに裕福でなければならないが)にも手が届く列車へと変わっていきました。

 

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特別急行列車の象徴ともいえる、最後尾に連結された一等展望車は、その車内もふんだんな装飾が施されて豪華絢爛であった。まさに、上流社会の人々にとってふさわしいともいえる車内は、客船の「一等喫煙室」のようなものだったのかもしれない。
2018年9月16日 マイテ39 11 鉄道博物館所蔵(筆者撮影)

 

 こうして「富士」は、一等車から三等車まで連結される列車へと成長していきましたが、平和な時代は長続きしませんでした。

 1939年には中国大陸に建設された満州国との連絡輸送が強化され、ここへ渡る人々が増えたことで、京都-下関間では二等寝台車と三等寝台車が連結されるようになります。満州国へ所用で出かける人だけでなく、移民として渡る人々もこの「富士」を利用するようになったのです。

 1940年代に入ると、日本を取り巻く状況は日に日に悪化していきました。1941年には日中戦争が勃発し、それまで連結されていた三等車が編成から外されていきます。これは、戦時体制に入ったことで鉄道の輸送力を増強するためで、可能な限り三等車をかき集めて列車を仕立てるようになり、「富士」の三等車も例外なく編成から外されて転用されていったのでした。

 とはいえ、暗い話ばかりではなく、戦争の拡大と輸送力増強による賜といえる関門トンネルが1942年に開通、運転区間は一気に長崎まで延伸されました。また、上海航路の旅客線が長崎に到着する日には、「富士」にボートトレインの役割を担わせるために、長崎駅からさらに港湾部へ延伸されて設置された長崎港駅(ながさきみなと)を発着駅にするようになりました。

 しかしこうした状況も長くは続かず、戦争の激化は鉄道にも大きな影響を与え、翌1943年には「富士」を取り巻く環境は大きく変化していきます。特別急行列車は第一種急行へと名称が変更され、さらには長崎・長崎港まで延伸したのを、博多まで運転区間を短縮されました。また、長崎港駅でボートトレインとしての役割を担うことになった長崎-上海間の航路自体も、航路を担っていた船舶の沈没によって事実上の廃止になってしまいました。

 さらに太平洋戦争の激化によって、もはや「富士」のような列車は戦争遂行には不要不急と見做されるようになり、1944年に「富士」の運行そのものが休止されてしまいました。

 

《次回へつづく》

 

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