旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車〜経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち〜 番外編・見た目は貨車でも分類は客車 期待に応えることなく数年で儚く散ったマニ44【2】

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〈前回からの続き〉

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 マニ44は1978年から製造が始められました。

 既にこの頃の国鉄は、財政事情は火の車の状態でしたが、老朽化が激しくなった旧型の荷物車をそのまま運用し続けることは、補修用部品の入手も困難になり、検修の手間も増えて運用コストの増大を招いていました。できる限りそうしたコストを減らして収益を上げるためには、新車の製造もやむを得ないという発想でマニ44の新製を始めます。

 車体はスニ40と同様に、薄厚プレス鋼板を多用したパレット対応の総開き戸となりましたが、スニ40は単に荷物室となる部分だけというほぼ貨車といってもいい構造であったのに対し、マニ44は荷物室は貨車と同じにしても、その両端には前位側に車掌室・業務用室を、後位側には車掌室を設け、乗務員用の扉と広報監視用の小窓、そして後部標識灯(尾灯)を取り付けるなど、客車としての体裁を整えました。

 こうした車体構造のため、車体長は19,500mmとスニ40の16,700mmよりも長くなりました。

 屋根はワキ10000後期型とおなじプレス鋼板を用いた各屋根となり、屋上にはガーランド型のベンチレーターも備え付けられました。

 車体は青15号で塗られ、即扉も同じ色で塗装されていました。スニ40などは側扉は銀色で塗装されていたのでワキ10000に近い姿でしたが、マニ44は側扉も青15号に塗られていたので雰囲気が大きく異なりました。

 装着する台車も客車用のものでした。TR232は軽量客車の嚆矢となった10系のために開発されたTR50を始祖とするもので、軸箱支持はペデスタル式、枕ばねはコイルばねを採用した軽量構造の台車でした。ブレーキ装置に応荷重装置付CL方式を採用したので、最高運転速度の向上にも寄与しました。

 マニ44はほとんど貨車に近い構造をもちましたが、車掌室があるため電気暖房装置と蒸機暖房装置を備えていました。そのため、マニ44が編成途中に組み込まれても、暖房用蒸気配管と電気暖房用回路が引き通しされているので、他の車両にもこれらの暖房用熱源を送り込むこともでき、同時に車掌室にも暖房が効くので、冬季における乗務員の執務環境も確保されていました。

 また、これに加えてマニ44の妻面には、乗務員が他の車両と往き来できるように、小さいながらも「潜戸」が設けられました。通常は貫通扉と貫通幌を設けますが、マニ44の場合は貨車に近い構造であること、荷物室はパレットに特化した構造であることから、乗務するのは車掌だけであるということで、走行中に他車との往き来はしないことを想定したいたようなので、こうした簡易な潜戸になったと考えられます。

 このマニ44は1978年から製造が始められ、次々と完成させて全国の荷物列車に連結されて運用されました。また、一部は旅客列車などにも併結されて、新聞・雑誌輸送にも使われました。

 国鉄の荷物輸送の合理化と老朽車を一新する期待を込められた新形式として、全部で161両(2001ー2161)が製造されました。この新形式をもって老朽化していたマニ36やマニ60といった旧型客車を置き換えていきましたが、製造開始から僅か8年後、最終の製造からは3年後の1985年のダイヤ改正で、国鉄はごく僅かの例外を残して荷物輸送を全面的に廃止しました。この荷物輸送の廃止によって、他の荷物車と同様に、マニ44は一瞬にして仕事を失ってしまったのでした。

 マニ44の場合、他の荷物車と比べてもこのことは悲劇でした。というのも、通常の客車は全般検査を8年の周期で施行することが定められていますが、マニ44はもっとも古い車両でも製造から8年が経つところだったので、用途を失うまでに全般検査を受けたものは皆無だったのです。言い換えれば、新車のまま、用途を失い廃車になったということでした。

 

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幸運にも敗者を免れた16両のマニ44はJR東海に継承され、塗装もユーロライナーに合わせた明るいものへと替えられた。「カートレイン名古屋」として熱田-東小倉間で運用され、乗用車を載せる役割を担った。カートレイン廃止後は、さらに2両を残して廃車になり、残存した2両もトロッコ車両オハフ17へと改造され、2006年まで活躍した。【出典:Wikimedia Commons ©spaceaero2, CC BY-SA 3.0,】

 

 マニ50やスユニ50のような一般的な構造の荷物車は、救援車代用などの用途に転用されたものもありましたが、マニ44の場合はそうはいきませんでした。パレット輸送に特化した貨車にも近いその特殊な構造から、マニ44はほかへの転用が効かず、ごく一部を残して分割民営化までには廃車解体されていきました。

 短い車両でも3年ほどしか経ってなく、まさに国鉄財政破綻と分割民営化の「犠牲」となってしまったといえるでしょう。

 また、鉄道車両減価償却期間は新製から13年です。この減価償却期間を過ぎると、資産としての価値が大幅に減り、廃車にしてもそれほど大きな損失もなく、税制上も何ら問題ないみなされます。しかしながら、新製から長くて8年、短いものでは3年では到底減価償却もしきれていません。国鉄は国の公共企業体なので、その財務状況は会計検査院が監査しています。当然と言えますが、このような短い期間で大量の車両を廃車処分としたことに、会計検査院国鉄に対して「無駄だ」と指摘したであろうことは容易に想像できます。

 1987年の分割民営化では、その多くが車齢が若いままにして廃車という最悪の末路をたどっていきました。しかし、16両だけは幸運にも廃車を免れ、JR東海に引き取られ「カートレイン名古屋」として自動車を載せて走り続けました。

 もっとも、設定当初は物珍しさも手伝ってそれなりに人気のあった「カートレイン」ですが、徐々に利用者も減っていきそれも廃止になると用途を失い、トロッコ車に改造を経て2006年まで活躍し、翌2007年に廃車となってマニ44はすべて廃車、形式消滅してしまったのでした。

 もっとも、2006年まで残った車両は姿を変えたものの、多くの仲間たちが産声を上げて走りははじめた直後に、生みの親ともいえる国鉄の都合で余剰と化し、次々と廃車・解体という末路を辿っていったのに比べると、20年近くも活躍できたのは幸運と言えるでしょう。

 いずれにしても国鉄の荷物輸送を刷新・改善するという目的と期待をもって登場したにもかかわらず、一転して荷物輸送の廃止という合理化の大きな波に飲み込まれ、登場して間もなく用途喪失による廃車という歴史は、数多い国鉄形車両の中では類い希な悲運のもちぬしだったといえます。しかしながら、パレット輸送の普及に貢献した実績は大いに評価されるべきことではないでしょうか。今日の貨物輸送でパレットを用いない輸送方法はほとんどなく、規格こそ異なるもののパレチゼーションの推進に一役買ったことは間違いようがありません。

 いつもなら貨車についておはなししておりますが、今回は客車でも貨車に類似した構造をもつことで、番外としてマニ44を取り上げました。

 

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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