旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨車の色にも「意味」があった【1】冷蔵車の場合

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 いまや鉄道車両はカラフルになった・・・かと思いきや、ステンレス鋼やアルミ合金が車体素材の主流となったため、無塗装で素材の色そのまま、ギラギラと光る車両が多くなりました。車両の軽量化や塗装の省略など、運用コストを大幅に減らすことを実現できるものなので、仕方ないといえばそれまでかもしれませんが、それにしても寂しいと感じるのは筆者だけでしょうか。

 さて、ステンレスやアルミ合金を使うのは旅客車でのこと。貨車や機関車ではその限りではありません。昔も今も、変わることなく普通鋼で作られているので、当然、塗装を欠かすことができません。

 貨車や機関車に軽量素材であるステンレスやアルミ合金を使えないのは、やはり強度の問題だと言えます。確かにどちらも腐食に強い金属素材なので、風雨にさらされる鉄道車両にとって、錆びないというのは大きなメリットです。しかし、旅客車は車内に接客設備を備え、乗車した利用者の合計の体重分の重量を支えられれば十分なので、これら軽量金属を使っても一定程度の強度さえ保てれば問題になりません。

 一方、貨車はかなりの重量に耐える強度が要求されます。例えば、今日の貨物輸送の主役であるコンテナ車は、1個あたり5トンの積載量をもつコンテナを、最大で5個積みます。単純計算で、25トンの荷重に耐えられる強度が求められるので、ステンレスやアルミ合金と比べて強度が保てる素材として、普通鋼が選択されるのです。

 この貨車も、今ではかなりカラフルになりました。もちろん、それぞれ身に纏う色には意味があり、なんとなくきれいだからとかイメージにあるからといった理由で選ばれているのではないのです。

 かつて国鉄時代には、貨車は原則として黒色一色で塗装されることが規定されていました。一部に例外があったとしても、それが有蓋車だろうが無蓋車だろうが、あるいは石炭車だろうがすべて黒色で塗装していました。

 黒が採用されていた理由はいくつかありますが、もっとも知られているのは烝機に牽かれるため、それかは吐き出される煤煙が車体につくので、結果的にすぐに黒くなってしまうのなら、最初から黒色で塗っておけば目立たないということでした。

 貨車の運用は旅客車とは異なり、一度貨物を載せたら全国どこへでも荷受人が指定する駅まで走ります。途中、いくつかの操車場で列車の組み換えを減るので、日数もそれなりにかかっていました。荷受人が指定した駅に到着すると、また別の貨物を積んで新たな荷受人が指定する駅へと向かいます。

 具体的な例を挙げるとすれば、横浜市にあった新興駅から、広島県尾道駅までワム1車を輸送するとしましょう。すると、次のような経路をたどって行くことが考えられます。

 新興駅(神奈川県横浜市)=<高島線>=入江駅=<高島線>=新鶴見操車場=<東海道本線>=稲沢操車場=<東海道本線>=吹田操車場=<東海道山陽本線>=岡山操車場=<山陽本線>=尾道駅

 とまあ、こういった具合で、筆者が考えるところでは少なくとも両端の増解結列車と拠点となる操車場間を結ぶ列車、合わせて5本の列車を乗り継ぐようにして組み替えられて目的地へと至りました。

 尾道駅へ到着した貨車は、積荷を下ろすとそこから発送される新たな貨物を積む場合もあれば、空のまま回送されて近隣の需要がある貨物取扱駅へと赴いて、そこから新たな貨物を積むこともあります。もと来た新興駅へは回送されることはなく、全国どこでも必要なところで運用されるのが貨車の運用の基本だったのです。

 この間、貨車を牽くのは蒸機がほとんどでした。蒸機から吐き出される煤煙に晒した状態が続き、車体には煤がこびりついてしまいます。黒い煤がこびりついたまま走り続けるので、貨車は自ずと真っ黒になってしまうのです。ですが、貨車は旅客車のように車両基地に帰ることはないので、車体を洗ってもらうこともありません。

 このような運用が常態化していたので、国鉄は貨車の標準色を黒色と定めていたのでした。今日では、黒色に塗装した貨車は非常に少なくなってしまいましたが、国鉄の貨物輸送全盛期はこの黒く塗られた多種多様な貨車が活躍していたのでした。

 白と銀 冷蔵車の場合

 黒一色で塗ることが貨車の標準色として定められていましたが、中には例外というものが存在しました。もちろん、車両工場が全検などで塗装し直すときに、何らかの糸があって例外的に違う色を塗る、というものではなく、国鉄の塗装規定にしっかりと定められた「例外規定」なのです。

 操車場で入換をする貨車を眺めていますと、色が違う貨車を目にすることがありました。黒い貨車の中に混ざっているので、非常に目立つ存在でもありましたが、その中でも冷蔵車はすぐに分かる存在でした。

 国鉄では冷蔵車には白色または銀色の塗装をすることになっていました。冷蔵車は主に漁港などで水揚げされた鮮魚を、都市部の市場まで輸送する役割を担っていました。え、冷凍ではないのか?という疑問を持たれる方もいらっしゃると思いますが、かつては冷蔵で輸送していたのです。

 水揚げされた鮮魚は、発泡スチロールなど断熱性のある箱に詰められた氷のなかに入れて運ぶことが一般的でした。確かに冷凍の方が鮮度は保つことができますが、一度冷凍した魚介類は、解凍してしまうと再び冷凍して保存することができません。氷詰めの箱の中に入れておくほうが、それなりの鮮度を保つことができたので、日本では機械式冷凍機を備えた冷蔵車はほとんどなかったのでした。

 その冷蔵車は断熱性が高い構造をしています。氷で保冷された鮮魚を、断熱性と保冷性が高い貨車に載せることで、魚介類の鮮度を保ったまま需要地の市場まで運ぶことができたのでした。

 とろこで、この冷蔵車国鉄貨車の標準色であった黒色であったらどうでしょう。黒色は熱を吸収しやすい色です。冷却することで鮮度を保つ冷蔵車が、車体の塗装で熱を吸収してしまっては、保冷性を損なってしまいます。また、貨物取扱液や操車場などで他の貨車と同じでは、目立つことはなく運用などの取扱に注意を要することを職員にわかりづらくなってしまいます。

 そのため、冷蔵車は木造車時代から黒色ではなく、銀色に塗られていました。銀色は光を反射する性質もあるので、太陽の熱を反射して室内の保冷性を損なうことなく、積み荷の魚介類の鮮度をある程度維持できました。もちろん、この銀色の塗料が断熱塗料の一つであるアルミニウムペイントが使われていましたが、白ではなく銀色にしたのは煤が付着して汚れが目立たないころから、銀色が選ばれたようです。こうして他の貨車よりも目立つこと、保冷性を保つために熱を反射する塗色が選ばれていたのでした。

 戦前から冷蔵車は銀色で塗装されていましたが、戦後になって変化が起きてきました。国鉄初の鋼製冷蔵車となったレ10000、さらに走り装置を二段リンクに代えて75km/hとしたレ12000は銀色ではなく白色で塗装されました。

 

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国鉄冷蔵車の一例。レム5000は冷蔵車の基本塗色である白色に塗られていたが、それまでの冷蔵車とは異なり、積載荷重も在来車の12トンから15トンへ引き上げられ、断熱性能も大幅に向上させた「重保冷車」として開発された。しかし、「レム」という形式が、軽保冷車として開発され保冷性の悪さから悪評を買ったレム1やレム400を想起させて、荷主からは不審の目を向けられた。そこで、重保冷を表すことと、レム1やレム400とは異なることをアピールするため、青15号で幅200mmの帯を巻いてイメージを変えた。同じ重保冷構造のレサ10000やレサ5000はこのような帯はなかった。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 レ10000・レ12000が銀色から白色に変わった理由は定かではありませんが、一つには車体が木製から鋼製に変わったことが考えられます。木製は鋼製と比べて断熱性に劣るので、塗装にはアルミニウム塗料が使われていました。しかし、鋼製になったので木製に比べて断熱性が向上したことと、戦後の製造であり、戦前や戦後直後の粗悪な代用材などを用いた冷蔵車ではなく、断熱材にも相応の配慮がとられたこともあり、アルミニウム塗料を使う必要性がなくなったと考えられます。そして、すでに電化工事が進展し始め、貨物列車を牽く機関車は蒸機から電機への転換が始まっていたこともあり、煤の付着も心配する必要がなくなり始めたこと、冷蔵車は他の貨車と異なり運用が特殊かつ厳格であり、車体を洗う機会が多かったことから白色が選択されたと考えられます。

 レ12000以降に登場した冷蔵車はすべて白色塗装でした。

 鮮魚特急貨物列車用に製造されたレサ10000・レムフ10000、85km/h運転で東北方面で運用されたレサ5000は、保冷性能が著しく向上しました。もちろん、車体の塗装は白一色で、どちらも他の貨車を連結しないという、拠点間輸送方式を採用したのでレサだけで組成された白一色の貨物列車は、当時としてはよく目立つ存在だったと言えるでしょう。

 一方、レサ10000などの基本になったレム5000は、やはり車体を白色で塗装されていましたが、青15合で幅30cmの帯が巻かれていました。これは、「レム」という形式に由来することが理由で、レム級の冷蔵車はレム5000の前は、レム1やレム400がありました。この2つの形式は「軽保冷車」として設計されたもので、冷蔵車がその構造と用途から片道輸送になってしまうため、冷蔵車の効率的な運用をねらって復路は有蓋車として使うことができる構造にしました。ところが、レム1やレム400は有蓋車として使うことも考慮したため、断熱が中途半端になってしまい保冷性があまりよくなく、荷主から嫌われてしまい、あまり運用されない結果になってしまったのです。

 こうしたレム級の過去があるため、事情をよく知らない荷主からは「また『レム』という貨車を作ったみたいだけど、同じようなものなのだろう。だったら使いたくない」とさえ思われてしまい、国鉄はレム級についてしまった荷主のイメージを払拭する一環として、この幅30cmの青15号の帯を巻いたのでした。

 このように、貨車の標準塗装が黒一色であった中で、冷蔵車は銀色、そして白色に塗られて非常に目立つ存在だったのです。そして、この「冷蔵」を表す白色の塗装は、貨物輸送の主役がコンテナに変わっても受け継がれ、簡易保冷コンテナのC95や、冷蔵コンテナのUR17やUR18などはやはり白色に塗られています。

 

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国鉄の貨物輸送が車扱からコンテナへと変わりつつある頃、コンテナも車扱貨物と同様に有蓋車の役をなすドライコンテナと、冷蔵車の役をなす冷蔵コンテナがつくられた。ドライコンテナは山手線の塗装と同じ黄緑6号だったが、冷蔵コンテナは保冷性を保つための塗装として冷蔵車と同じ白色であった。後に12フィート簡易保冷コンテナとして登場したC95は冷蔵コンテナではなかったが、保冷するというイメージと保冷性能をある程度保つため、やはり白色をベースにした塗色だった。分割民営化後、こうした保冷コンテナはJR貨物ではなく私有コンテナで賄われている。(©Gazouya-japan, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

  

《次回へつづく》