旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 生涯を常磐線と近隣だけで過ごした交直流機【2】

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《前回のつづきから》

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 1963年から製造されEF80は、常磐線用の交直流機として開発されました。常磐線は既に上野ー取手間が直流電化されており、取手以北の電化も進められようとしていました。しかし、取手以北の電化では、石岡にある気象庁地磁気観測所への影響が問題となっていたのです。

 地磁気観測所は、地球の地磁気と地電気を観測する施設です。地球にある磁気を観測することで、地殻変動や火山活動、地球内部の構造を探測することができます。また、上空にある電離層の変化などを知ることができ、電波の飛距離の特異な変化(専門的にはスポラディックE層による異常伝搬と呼ばれる)も知ることができるのです。これらは一見すると一般の生活には影響がないように思われますが、地殻変動地震の発生に繋がったり、電離層の変化もまた生活に大きな影響を及ぼします。夏場に1000kmちかく離れた地域の防災無線を受信してしまう例や、関東で九州地方のFM放送が聞こえてしまう例など、私達の生活にも少なからぬ影響を及ぼすのです。

 そうした観測と研究を行っている地磁気研究所は、地球の磁気を観測しているため、直流電化の影響を大きく受けるといわれていました。直流電化では、電車線(架線)から取り入れた電流(+極)は、レールに帰線(ー極)させます。レールに帰線させるため、地面に電流が流れる状態になるので、当然そこには地場が生じます。その地場は線路付近だけであれば問題にはなりませんが、地球の大地は電流を流す性質があるため、微弱ながらも広範囲に地場を作ってしまうのです。こうした現象は微弱な地磁気の観測にも影響が大きいので、地磁気観測所周辺の直流電化は不可能だったのです。そのため、国鉄も取手以北の電化に手を付けられないままになり、私鉄の関東鉄道も電化することができず、今なお非電化のまま気動車の運用を強いられています。

 国鉄も電化ができずに手をこまねいたままとはいきません。その頃、仙山線での試験で交流電化の目処がたったことは、常磐線の電化を進める助けになりました。交流電化であれば、直流電化ほど地磁気観測にも影響を及ぼすことがないので、取手以北については交流電化にすることが決まります。

 こうして、上野ー取手間の直流区間と、取手以北の交流区間を直通できる車両が必要となり、電車は401系に始まる交直流両用電車が開発され、電気機関車にについてはEF80が開発されたのでした。

 

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かつてJR東日本大宮総合車両センターに静態保存されていたEF80 36号機。1次形の特徴である埋込形の前部標識灯や、金属押えで支持された側面の採光用窓、そして2次形にも共通するルーバー(鎧窓)の形状など、1960年前半に製作された国鉄電機に共通する特徴をもっていた。スカートの形状も丸みを帯びたもので、デザイン性にも優れていると感じることができる。前面窓上にある庇は後年追加されたもので、埋込形の前部標識灯は雨水が溜まりやすかったため、この部分の腐食を防ぐ目的で追加された。大宮総合車両センターの保存機はどの車両も非常にきれいで状態がよく、今にも運用に戻れそうにさえ思えた。こうしたあたりは、同所の技術力の高さを示すものといえる。しかし車両保存には相応のコストと場所が必要であり、JR東日本がいっくら財務基盤が盤石でも、こうした保存車にかけるコストを度外視するわけにもいかなかったのであろう、鉄道博物館をはじめとした保存施設に行くことなく、2017年に解体処分されてしまったのは残念である。(©Hyper Maniac Man, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 EF80は他の交直流機と同様に、直流機に交流変圧器と整流器を載せた機器構成でした。交流機は変圧器に設けられたタップを切り替えることにより電圧を変え、整流器で直流に変換された電流を主電動機に流すことで制御できますが、直流区間ではこの方法は使えません。直流区間を走るためには、抵抗器をつなぎ替えることで電圧を変えて主電動機を制御するので、交直流機では交流電流を直流に変換し、直流機と同じ抵抗制御する方法が採られたのです。

 しかし1960年代前半の交流電気にかかわる技術は、まだ発展途上といっても過言ではありませんでした。初の量産交流機であるED70は1957年に製造されましたが、この頃は半導体技術がまだ実用化されてないため、整流器は巨大で重量のある水銀整流器が使われていました。その後、東北本線用のED71や、九州用のED72とED73も水銀整流器を搭載していました。いずれも振動に弱く扱いづらいもので、たびたび故障を起こしていたのです。

 最後に水銀整流器を搭載したED73は1962年に製造されましたが、同じ年に北陸本線向けに製造されたED74は、ようやく実用化に漕ぎ着けたシリコン整流器を搭載して登場しました。

 シリコン整流器は半導体であるシリコンを使ったダイオード素子を使って交流を直流に変えるものです。振動にも強く、取り扱いも水銀整流器と比べると格段に簡便でした。しかし、開発魔もないシリコン整流器もまた、大きくて重量がかさんでいました。これに加えて変圧器もまた重量があり、この他にも高圧交流電流を扱うため遮断器なども搭載しなければなりません。そのため、交直流機は直流機に比べてどうしても重量が重くなってしまうのです。

 この増えた重量をなんとか減らして、軸重を軽くしなければ本線を走ることができないので、EF80の開発にあたってはEF30と同様に、いかにして重量を減らすかが最大の課題だったのです。

 EF80が開発された1963年頃は、電気機関車自体の技術も発展している時期でした。従来の吊り掛け駆動ではなく、電車のカルダン駆動に相当するクイル駆動が採用されていました。ED60やEF60の初期量産車はこのクイル駆動が使われました。クイル駆動は吊り掛け駆動と比べてばね下重量が小さいため、振動も小さくなるため軌道への影響も少なくなるので、電車のカルダン駆動に対し電機のクイル駆動は次世代の駆動方式として期待されました。

 しかし、クイル駆動は構造上、歯車内に砂埃が入り込みやすく、噛み合わせが悪くなった結果、異常振動を頻発する不具合が起きてしまい運転・検修の両面で頭を悩ます存在になってしまったのです。結果、クイル駆動から旧形電機標準だった吊り掛け駆動に戻され、今日のVVVFインバータ制御をもつJR貨物が製造した電機も、駆動方式は吊り掛け駆動を採用しています。

  この期待された新機軸であるクイル駆動を採用し、なおかつ車体重量を軽減させるために、EF80はEF30と同様に1台車1主電動機という特異な構造を採用しました。

 通常、電機や電車では、動輪軸1つに対して主電動機を1台装着させます。2軸ボギー台車であれば、2台の主電動機を装着し、それぞれの動輪軸を動かしています。しかし、2台の主電動機を装着するということは、それだけ重量が重くなってしまうので、車体全体の重量を上げてしまいます。なにより、既に交流関係の機器を搭載しているため、通常の直流機よりも重くなっているので、台車に架装した主電動機が通常の1台車2主電動機では重量の軽減は叶わなくなってしまいます。

 そこで国鉄が採用したのは、1台車1主電動機という方法でした。これなら、台車に架装される主電動機は1台で済むので、車両重量を抑えることが可能になるのでした。

 だた、この方法にも問題がありました。

 1台の主電動機で2個の動輪軸を動かすためには、主電動機の回転軸を2つの動輪軸を動かすために、それぞれの歯車に接続させなければなりません。そうなると、構造は自ずと複雑になってしまいます。この方法にクイル駆動は最適だったかはわかりませんが、少なくとも複雑な構造になってしまったがゆえに、検修陣も相当苦労していたことは想像に難くありません。

 もう一つは機関車全体の主電動機の数が減るため、出力自体が低下してしまうことでした。出力を確保するためには、主電動機の出力を大きくする他ありません。そこで、EF80のために出力を650kWに強化したMT53を開発して装備させたのです。このMT53は、後にEF66のために開発されたMT56と同じ出力ですが、EF66は高速運転のために開発されたものなので、MT53とMT56は数値こそおなじでありますが、まったくの別物でした。

 EF80は外観も、1次車と2次車では多少異なりました。どちらも重連運転を考慮しないことから、非貫通構造とし、前面窓は前面中央部から左右に分割されて側面へ回り込む、パノラミックウィンドウを採用しました。EF60以降の非貫通車共通のデザインで、多くの国鉄形電機で見られた形状です。

 前部標識灯が特徴的で、1960年代初頭に製作されたEF60やEF61などは、白熱灯1個を前面上部中央に取り付けていましたが、メンテナンスとコストの両方を軽減できるシールドビーム灯の採用が進められ、EF80も白熱灯ではなくシールドビーム灯2個を、前面上部に左右振り分ける形で取り付けられました。

 この頃の製作され、シールドビーム灯が採用された国鉄形電機に共通するものですが、灯具は車体外板から埋め込まれる意匠でした。どうしてこのような「埋込式」になったのかは定かではありませんが、走行中に雨水が風圧でせり上がり、埋め込み部に溜まることが多く見られたようで、ここに溜まった雨水が外板を腐食させることが懸念されたようです。後に、この雨水のせり上がりを防ぐため、1次形には庇が取り付けられる改造が施されたことで、なんともいかつい顔つきになってしまいました。

 2次形ではこうした運用で分かった課題から、前部標識灯の取り付けを埋込式から張り出し式に変更されました。言い換えれば、EF62以降に採用されたデザインになり、ごく一般的な国鉄形電機の顔つきになってしまいました。

 また、側面の明かり採り窓も、1次形ではEF61やED72などと同じように、金属押さえ支持でしたが、2次形ではHゴム支持に変えられ、こちらも特徴のない国鉄形電機のデザインになりました。

 こうして交直流機であるが故に重量がかさむ宿命を、いかにして減量するかといった課題を解決するために、EF30でも採用された「1台車1主電動機」という特殊な機構を採用してなんとか減量化に成功したEF80は、当初の計画通りに常磐線で使用するため1次車は田端機関区へ、2次車は勝田電車区に集中配置されました。

 

《次回へつづく》