《前回のつづきから》
筆者が鉄道マン時代に使っていた公用車は、その多くが白いボディーを持つ商用車でしたが、入換作業の激しい貨物駅構内に駐めていたために、ボディーに制輪子から飛び散った鉄粉が多く着いていました。たまに作業がない日があると、公用車を洗車することが仕事になりましたが、ただでさえワックスがけなどしないので、この鉄粉がこびりつき、最悪の場合はこの鉄粉から腐食(=錆)が僅かなながら進んでしまい、もはや洗っても落ちなくなっていました。一見すると白なのですが、よく見ると赤茶色の粉のような錆が無数にあったのです。
この鉄粉から新車の自動車を守るために、かつてのク5000ではシートカバーを積荷の自動車に被せていました。UM20Aでは、このカバーを使わない代わりに、油圧で動作するウィングルーフ式のカバーが使われていました。このカバーがあるため、UM20Aは一見すると有蓋コンテナにも見えますが、カバー自体は取り外しが可能なものでした。ところがこのカバーは、大きな自動車も載せることができるように車両限界ぎりぎりの高さにしたことと、超低床のコキ71に載せるサイズに合わせているため、非常に背が高く感じるものになりました。記録写真を見る限り、背高のっぽにも見えるのは、床面高さが低いことと、車両限界いっぱいに高くしたことで感じるのかもしれません。
このカバーを使うことで、積荷の自動車を制輪子の鉄粉から守ることができますが、帰路の12フィートコンテナを積むときには、このカバーを取り外すことはできませんでした。カバーを外してしまえば、そのまま往路の着駅に置き去りになってしまうので、次の往路では使えなくなってしまいます。ですから、復路で12フィートコンテナを積むときには、ウイングルーフを全開にしてからコンテナを積み、ルーフを閉じた状態で運転されたのです。言い換えれば、帰り道に積んだコンテナは、カバーの中に入れた状態で運ばれたということでした。
このように、コキ71はUM20Aという特殊な構造のコンテナと対で運用することで、その能力を最大限に発揮する貨車で、UM20A以外のコンテナを積んで運用することを考慮しない、コンテナ車としては異例の特殊な車両で、汎用性に乏しいものでした。それでも、荷主となるトヨタ自動車の製品を絶えることなく輸送できると踏んで、こうした車両を誕生させたのでしょう。
1994年に登場したコキ71とカーラックコンテナのUM20Aは、名古屋貨物ターミナルー新潟貨物ターミナル・米子間で、トヨタ自動車製の自動車輸送に使われました。しかし、2000年代後半にトヨタ自動車による鉄道輸送が終了すると、その特殊な構造と積載できるコンテナが限定されていたことなどが災いし、車齢も10年そこそこで用途を失ってしまいました。荷主の要望を最大限に聞き入れ、多額の開発費用を投資したにもかかわらず、それを利用することが前提だった荷主の都合で輸送が終了したことで、使い途がなくなるというのは、JR貨物としても非常に歯痒い思いをしたと想像できます。新製から10年そこそしか使われなかった車両、しかも投資額も製造費も高くついているので、安易に廃車にすることもできず(国の資本が入っているので、監査は会計検査院が行い、「無駄遣い」と指摘されかねない)、結局は笠寺駅に保留車として留置せざるを得ませんでした。
筆者が所要で2014年に名古屋を訪れたときにも、コキ71は笠寺駅の構内に留置されたままでした。カーラックコンテナのUM20A30000番台も載せられたままで、ラックカバーこそ取り外されていましたが、この2つの特殊な構造のコンテナ車を観察することは可能でした。とはいえ、鉄道友の会から貨車としては異例のローレル賞まで受賞し、その将来も期待されてはいたものの、不遇な処遇に終わるとは誰も想像できなかったでしょう。
コキ71の後、JR貨物は荷主の要望を聞き入れた特殊な車両の開発をすることはなくなりました。逆に、汎用性の高いコキ100系に載せることができるコンテナ開発に軸足を移し、特殊な構造のコンテナは私有コンテナにすることで、コキ71のような失敗を繰り返さないようになります。
荷主の都合で振り回され、その不遇な人生ではあったものの、JR貨物が悲願としていた超低床コンテナ車を実用化に漕ぎ着けたという点では、コキ71は意味の大きい貨車だったといえるでしょう。
最初にもお話したように、筆者が鉄道マンだった頃から、コンテナ車の超低床化は車両開発に携わる技術人だけでなく、会社としての「悲願」でした。しかしながら、小径車輪に由来する、連続高速走行をするときに起こる車軸の発熱だけはいかんともしがたく、これを解決できたなら社長賞ものだとか、そんな話が公然と囁かれたほどでした。
そうした中にあって、試作車だらけの70番代コキ車の中にあって、コキ71は唯一実用化した形式でもありました。それはまさに、技術陣の「執念」が為せる技であり、車両開発史の中に貴重な1ページを刻んだと言えるでしょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
あわせてお読みいただきたい