旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

老体にむち打ち今なお吉備路を走り続ける国鉄形【2】

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《前回からの続き》

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 221系京阪神の新快速に投入されてきたこともあり、車両の接客設備は一定の水準を満たしています。しかし103系は通勤形と呼ばれるロングシートを備えただけのものであり、その収容力を生かして大都市圏での混雑緩和には力を発揮しますが、客室の設備も最低限になってしまい、観光客への接客サービスとしては如何ともし難いものがあります。西日本会社は観光地を走る路線にロングシートだけの通勤形を走らせ続けるのは、サービス水準を低いままにしておくことにもなり、競合する私鉄との競争力を持たせるには103系を追い出して221系を充てるほうがよいと判断したのでした。

 こうして京阪神を走った221系は、関西圏とその周辺の路線へと転じていき、山陽本線はそのまま113系115系が残されたのです。そして、あろうことか関西圏で余剰となった103系は、山陽本線で使われていた113系などの初期車を押し出すために、特に乗客の多い広島都市圏へ配転となり、とうとう山陽本線呉線などにもロングシートの電車が走る始末でした。

 そうなれば、223系を増備して山陽本線へ配置すればいいではないか、という考えも浮かんでくることでしょう。筆者も老朽化が進む国鉄形を走らせ続けるのは、接客サービスの面でも運用コストの面でも、経済的な観点から芳しいとは思えませんでした。

 しかし、JR西日本には、そこへ資金を投資できるほどの余裕はなかったのです。

 その原因の一つが、2005年4月に起きた福知山線脱線事故と言えます。第二次世界大戦終戦後、国鉄が立て続けに起こしだ重大事故(国鉄五大事故)のうち、連絡船を除く鉄道事故として3番目の犠牲者を出した「桜木町事故」と並び、国鉄分割民営化後最大の惨事となった事故で、多くの方の記憶にも新しいことでしょう。

 筆者も信号保安設備と電力設備に携わる鉄道マンだったので、初期研修ではこの桜木町事故三河島事故、そして鶴見事故について学ぶことは避けて通れませんでした。鉄道輸送は多くのお客様と、貴重な貨物を一度に大量に運ぶことができる公共交通機関です。それ故に、日常的に運転時刻の定時性を高めることはもちろん、何よりも安全輸送は絶対に欠いてはならない最重要事項であり、何よりも優先しなければなりません。その安全輸送を実現するためには、様々な法規や既定を理解して遵守し、作業や検査の技術を常に保ち向上させることが求められました。すなわち、ほんの隙きをも与えない厳しい目と確かな技術力をもって、鉄道の安全輸送を実現しなければなりませんでした。

 

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山陽本線の輸送力改善のために製作された115系3000番代は、2扉転換式クロスシートという国鉄近郊形電車の中では117系と並んで特異な仕様となった。登場当初はホワイトアイボリー+青20号帯と、湘南色か横須賀色が基本だった当時の近郊形電車の塗装を纏わなかったことも異色の存在だった。国鉄分割民営化で全車がJR西日本に継承され、後に体質改善工事施工時に写真のようなJR西日本独自の塗装に変え、古い車両ながらもイメージを刷新した。(クハ115-3104〔広セキ〕 下関駅 2007年10月9日 筆者撮影)

 

 この事故では、詳細についてはいずれ別の稿でお話できればと思いますが、既定からの甚だしい逸脱と、安全輸送に対する意識の欠如、そしてそうしたことを起こしてしまう心理状態をつくりだした、国鉄時代からの悪しき慣習と幹部職員の組織運営に対する態度など、様々な要因が積み重なった結果でした。

 106名の尊い命を奪った代償は大きく、犠牲となられた方とそのご家族への補償、重軽傷を負い身体的にも精神的にも後遺症を負われてしまった方々への補償、そして列車が突っ込んだことによって安住の地を奪われてしまったマンションの住民の方々への補償と、JR西日本が会社として負わなければならない義務は大きく、そのために経営そのものが圧迫されることに繋がりました。

 この事故からも、車両だけではなく地上にある信号保安設備を始めとする、線路施設や電気設備への投資を増加させなければならなくなり、もはや新車投入どころではなくなってしまったのです。もっとも、国鉄から継承した国鉄形をいつまでも延々と使い続けることは難しく、いずれは置き換えていかなければならないのも現実だったので、新車の製造・投入ペースを遅らせてでも続けられました。

 京阪神や関西圏の主たる列車の置き換えが一段落すると、それまでだましだましながら使い続けてきた山陽本線国鉄形も限界に近づきつつありました。特に広島都市圏で運用されていた国鉄形の老朽化は激しく、補修をするにしても財政的にも厳しくおいそれと補修ができない場合には、嘘か真かガムテープを貼ってその場を凌いだという話もあるほどでした。一部の趣味者からは「國鐵廣島」と呼ばれるほど国鉄形の宝庫でしたが、日常的に利用する乗客にとっては嬉しいことではなかったことでしょう。

 加えて新車の製造・投入も難しくなり、財政的にも厳しさを増したJR西日本は、さらなるコスト削減策を行いました。国鉄形は211系などを一部を除いて鋼製車なので、全般検査などでは必ず再塗装を行います。民営化後、JR西日本は古い車両でもイメージを新たにするため、独特の塗装を施していました。いわゆる「カフェオレ色」とも呼ばれるアイボリーにブラウンを基調とした塗装で、形こそは古くてもその色をもって新鮮さを演出していたのです。

 

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京阪神間は国鉄時代から並行する私鉄との競合が激しかった。国鉄時代は52系電車、いわゆる「流電」の投入による「急行電車」の運転や、急行列車の廃止などによって余剰となった153系電車を活用した新快速の運転など、常に私鉄を意識した独特の運行体系をとっていた。そのことは民営化後も同様で、JR西日本は加速力に劣り、高速性能も今一つであった国鉄形を早期に置換え、界磁添加励磁制御221系、さらにVVVFインバータ制御の223系を新造した。これらの車両は関西圏でも京阪神に優先的に配置し、国鉄形を押し出す形で他の地域へ転出させた。こうした配置転換によって、老朽化が激しかった国鉄形でも初期車を淘汰したが、後年は経営環境が厳しくなったことも手伝って、長期に渡って国鉄形を運用せざるを得ない状況になってしまった。(クハ222-1010〔近ホシ〕 彦根駅 2012年8月7日 筆者撮影)

 

 この塗装では数種類の塗料を使うだけでなく、塗り分けも窓まわりと細い帯など、その工程ではマスキング処理をしなければなりません。また、塗装工程は誰にでもできるというものではなく、窓や方向幕、ドア部分など相当な箇所をマスキング処理しなければならず、そのためには経験を積み上げた職員でなければ務まるものではないのです。筆者が小倉車両所に勤務していたときに、全検入場しすべての検査工程を終えたED76は、交流機独特の屋根上機器の艤装前の段階で塗装職場に入れられますが、かなりの数にマスキングがされていました。また、赤一色でしたが、塗装のムラがないようにスプレーで吹き付けますが、大まかな部分は機械化されてはいたものの、最終的な修正は人の手によらなければならず、また、標記類は職員の手によってシルクスクリーンを使って「塗られて」いたのです。

 こうした一連の作業を簡略化し、塗料も複数のものを使うよりは、一色だけにすることでコストの軽減を狙ったのが、いわゆる「地域統一色」と呼ばれる塗装でした。山陽本線とその支線で運用される車両には、かつての国鉄中央・総武緩行線に使われた黄色5号に似た真っ黄色に塗られてしまい、一部からは国鉄の末期に気動車に施された単一色になぞらえて「末期色」などと揶揄されてしまったのです。

 

《次回へつづく》

 

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