《前回からのつづき》
2001年から製造がはじめられたEF510は、すべてが日本海縦貫線用として富山機関区に集中配置され、関西圏ー北陸・東北地方を結ぶ貨物列車を中心に活躍しています。先行量産機である1号機が落成直後に新鶴見機関区に配置されて各種の試験を行ったとき以外は、量産機はすべて富山区への配置になったので、首都圏では見かけることのできない貴重な電機でした。
ところが、2009年からJR東日本が老朽化したEF81の取替用として、一部を旅客会社の仕様に変更した500番代を製造し、田端運転所に配置しました。全部で15両が製作されましたが、こちらは交直流機であることを表す赤色の塗装ではなく、当時運転されていた寝台特急「北斗星」と「カシオペア」を牽くことを想定し、これらの車両の塗装に合わせて青色または銀色の塗装で登場しました。「北斗星」に合わせた青色の車両は、やはり「北斗星」で使用されている24系客車と同じく金色の帯を巻いていたので、ブルートレインを牽くに相応しい出で立ちでした。
新製直後の撮影なので、車体の青色も映えて、下回りの黒色にも艶が見られる。EF510 500番代は全部で15両製造されたが、そのうち「カシオペア」塗装となった509、510号機の2両を除いて、「北斗星」に合わせた青色と金色の帯という出で立ちだった。田端運転所に新製配置され、EF81の一部を置換えて東北本線の寝台特急をはじめ、小売り時臨時列車や受託していた貨物列車に充てられていたが、寝台特急の廃止と貨物列車の受託解消によって、新製から3年しか経っていないにもかかわらず「余剰車」となってしまった。JR東日本は完全民営化されているので、こうした無駄にも見える投資は国から指摘されることはないが、株主からは指摘されることであるといえる。しかし、実際にはJR貨物へ売却されることになっていたので、そうしたことはなかったが、この中古となった500番代をもって富山に残存していたEF81を淘汰したことを考えると、恐らくはJR東日本が新製し、JR貨物に売却することは既定路線だったと考えられる。(EF510-514〔田〕 新鶴見機関区 筆者撮影)
「カシオペア」用に合わせた車両もまた、銀色をベースに側面にはE26系に合わせたカラーリングの流星ステッカーが貼られ、汎用的に使うどころか専用機といってもいい出で立ちになったのです。
JR東日本が保有したEF510は500番代に区分され、保安装置を貨物用のATS-SFとATS-PFから、旅客用のATS-PとATS-Psに変更して装備しました。さらに黒磯駅の交直セクションを通過するときに使用する自動列車選別装置も装備して、黒磯駅で運転停車をしないで交直切替を可能にしたのです。
もちろん500番代は「北斗星」や「カシオペア」の先頭に立ちましたが、それ以外はEF81が担っていた首都圏の、とりわけ常磐線の貨物列車の運用も担いました。そのため、首都圏では貨物会社のEF510を見ることはできませんでしたが、旅客会社のEF510を見ることができ、新鶴見機関区でも頻繁に見かけることができたのです。この時期は、まさにJR世代の電機を一同に見ることができた、今となっては貴重な頃だたのです。
写真は新鶴見機関区で次の仕業に備えて待機する、EF510-510の姿を捉えたものです。西に傾き始めた太陽光線が僅かにオレンジ色になりかけていたので、シルバーメタリックの車体も太陽の色に合わせるかのような色合いになっています。この写真のように、JR東日本のEF510は、客車列車専用という運用ではなく、受託した貨物列車にも充てられていたのでした。
交直流機でありながら、シルバーメタリックの塗装は、精悍な面構えにはよく似合い、「く」の字型に傾斜をもたせた前頭部はまばゆく輝いています。この前面デザインは、どことなくヨーロッパの機関車を想起させるもので、かつては国鉄が開発製造したED72やED73にも通じるものがあるでしょう。新製から間もなかったことと、旅客会社の車両は利用者の目に触れる機会が多いという理由で、配置区所に戻ると入念に洗車を受けていたこともあって、非常にきれいな状態が保たれていました。
JR東日本はEF510 500番台を2009年に1両、翌2010年には14両の全部で15両を製作しました。特に2010年に14両というまとまった数を製作したことで、この年にJR貨物による0番代の製作は0となりました。恐らくはまとまった数をつくるため、製造ラインをすべて500番代に割り当てることが取り決められたと推測できます。まさに、財政基盤が頑強で、資金が潤沢なJR東日本だからできた業ともいえます。
これだけまとまった数の機関車を短期間でつくるのは、国鉄時代以来のことですが、それだけEF81の老朽化が深刻になっていたことの現れだともいえます。とはいえ、旅客会社の本音としては、できれば機関車を保有したくないのも事実です。同じ電気車でも電車と機関車ではその運転技術も検修技術も異なるので、その分だけ機関車に携わる職員の教育や、検修で使う部品の確保、運用を共通にはできないので機関車の運転操作ができる乗務員の確保など、常にその分のコストがかかってしまいます。コストを可能な限り減らして利益を確保するのは民間企業としては当然のことで、国鉄時代のようなことは許されるはずもないのです。
こうした旅客会社の方針が強く表れるようになったのは、2011年以降だと筆者は考えています。それまでの価値観を一変させたといってもいい、東日本大震災は鉄道においても然りだったといえるでしょう。
特に管内の多くの路線で被害を受けたJR東日本は、鉄道事業自体の経営の方向性を変えたと考えられます。震災で壊滅的な打撃を受け、列車の運行が長期に渡って不通を余儀なくされた路線の中で、利用者が少なく運行コストが相対的に高くなっていたところについては、鉄道での復旧にこだわらず、BRT方式の採用によるバスでの復旧を果たしました。鉄道事業者といえでも鉄道にこだわらない経営姿勢が明確にされた一例ともいえます。
そうした経営姿勢は、国鉄分割民営化から長らく続けてきた列車の運行体制にも波及していったのです。
常磐線も東日本大震災と、それを原因とする東電福島第一原発爆発事故によって、長期に渡る不通を余儀なくされました。一方で、北海道新幹線の開業もまた、東北・北海道方面の列車の運行に大きな変化を与えたのは周知の事実でしょう。
こうしたこともあって、2009年から翌2010年にかけて一気に15両も製作した500番代は、登場から3年しか経っていない2013年のダイヤ改正で貨物列車の受託が解除され、田端運転所の500番代は「北斗星」「カシオペア」用の数量を残して用途を失い、余剰車と化してしまったのです。
その後、2015年には「北斗星」が、2016年には最後まで残った首都圏対北海道の寝台特急「カシオペア」が廃止され、500番代全車がJR東日本での用途を失い、JR貨物へ譲渡されていきました。その際、保安装置を旅客会社仕様のものから貨物会社仕様のものへと交換され、500番代の特徴ともいえた側面の流星ステッカーも撤去されました。
写真のように旅客会社時代の500番代は今となっては見ることは叶わず、特に「カシオペア」指定機であった509・510号機は運転台窓下の帯も取り去られたので、シルバーメタリック一色となって富山機関区に配置されました。以後は、日本海縦貫線を0番代とブルーの500番代と共通運用を組み、貨物列車の先頭に立ち続けていますが、恐らくは全般検査を施行されたときに、外装については何らかの変化があると予想しています。
そんなシルバーメタリック一色の500番代、いずれはその姿も見れなくなると思いきや、新たに造られる300番代もまた、シルバーメタリック一色で登場しました。車体自体は普通鋼製ですが、関門仕様機は代々セミステンレス構造の車体を採用していたので、それに倣っての塗装ではないでしょうか。
EF510 500番代の内、509,510号機の2両は「カシオペア」塗装として、シルバーメタリックを基調とした塗装で登場した。JR東日本時代は側面に流星を、運転台側窓下のはE26系客車に合わせた帯を配していたが、JR貨物へ移籍する際にはこれらの装飾はすべて撤去され、シルバーメタリック一色になった。現在のこの2両の塗装とほぼ同じにしたのが300番代で、関門間の輸送を担った歴代の関門専用機を受け継いだ意匠になったといえる。今後、九州仕様に改良されたこのEF510が、長らく活躍していたED76とEF81の任を引き継いでいくことになる。(EF510-509〔田〕 新鶴見機関区 筆者撮影)
とはいえ、ナンバープレート部や車体裾には、国鉄時代から受け継がれてきた交流・交直流機を表す赤色の塗装がアクセントとして残されており、こうしたあたりはJR貨物が機関車を運用する鉄道開業以来の方式を保ち続けていることから、伝統を尊重する気質の表れだといえるでしょう。
伝統を尊重し後世へ伝える一方、新機軸の導入も忘れてはいませんでした。300番代では基本設計は0番代や500番代と同じですが、昨今の脱炭素化社会やSDGsの実現から、電力回生ブレーキを装備することになりました。民営化後に登場した電機はVVVFインバータ制御を採用して効率性を高めていましたが、意外にもブレーキは回生ブレーキはなく発電ブレーキを使い続けてきました。
これは、回生ブレーキは機関車が架線へ戻した電機をほかの車両が消費するなどしないと効果がなく、制動性能が不安定に陥りやすいことと、そもそもJR貨物は旅客会社の線路を借りて列車を運行するため、回生ブレーキなど他の列車や鉄道施設に影響を与えることが予想されるときには、旅客会社のとの間で詳細かつ難しい折衝が必要となります。時には旅客会社が難色を示したり、悪いときには車両使用の承認が得られないことや、厳しい条件を突きつけられることもあるので、そう簡単に新機軸を導入できないのです。*1*2
国鉄分割民営化から既に35年近く、九州で活躍を続けてきたED76やEF81も、車齢も既に50年近くになるので、世代交代の波は誰にも止めることができません。300番代が増備されるとともに、「赤べこ」とも呼ばれた機関車たちは姿を消し、過去のものへとなっていくでしょう。
どちらの機関車も、仕事でのかかわりもあったため、筆者にとっても思い入れ深い車両なので、こうして舞台から去っていくのは寂しい限りです。しかし、九州島内だけでなく、本州との間を結ぶことで、多くの人々を運び、そして物流を支えたという役割は非常に大きく、鉄道史の中で末永く記憶されることは間違いないといえます。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
あわせてお読みいただきたい
*1:貨物列車の運行は旅客会社の線路を借りるため、事前に旅客会社の承認が必要となる。機関車重連運転が常態化していたED75やEF64は、機関車2両分の線路使用料を支払っていたが、これでは貨物会社の運行経費が高くなってしまう。そこで、重連運転を解消して線路使用料の支払額を減らしつつ、重連と同等の性能を持つH級機を製作した。JR東日本からは承認が得られ、EH500やEH200による運転を実現でき、ED75やEF64 0番台の置き換えを可能にしたが、JR東海は今なおH級機の入線を認めていない。そのため、中央西線の貨物列車はEF64 1000番代重連運用が残っており、車両の老朽化もあって早期に取り替えたいJR貨物と、入線させるなら条件をより厳しくしたいJR東海との間で難しい折衝が続いているものと思われる。2021年にEH200が高崎機関区から愛知機関区へ回送され、中央西線で試験運転実施かともいわれたが、結局、本線試験運転は行われず高崎区へ返却された。こうしたことも、JR東海の経営姿勢とJR貨物との関係の一端を表すものといえる。
*2:EH200が高崎機関区と愛知機関区の間を回送する際に 高崎−新鶴見−(東海道)−稲沢 というルートが考えられるが、実際には 高崎−新鶴見−南松本−名古屋−稲沢 というルートが選択された。わざわざ勾配が厳しい中央本線を経由させたのは、東海道本線ではJR東海管轄の区間が長く、逆に中央本線はJR東日本管轄の区間が長く、JR東海管轄の区間が短くなるためだと考えられる。無動力回送なので貨物と同じ扱いにはなるものの、JR東海はH級機の通過に否定的であるがために、可能な限り同社管轄の距離を短くするためにこうした大回りの回送となったことが考えられる。