いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
12月は「師走」と言われるように、筆者の今の仕事は年度始めと年末、そして年度末が非常に忙しくなります。成績評価やら年度末処理、さらには次年度の準備などなど、ただでさえ世間からは20年以上も遅れた「アナログの世界」なので、かつては「デジタルの世界」の最前線で仕事をしてきた身には、言葉に表せないもどかしさを感じさせられます。
そんなわけで、前回の投稿から間が空いてしまいました。いつも楽しみにしていただいている皆様には、大変申し訳ございませんでした。
ところで、数ある国鉄形電機には、その生涯を決定づける目的が与えられ、その目的を果たして寿命を全うしてものもあれば、環境や国鉄の方針が変わったことによって、持て余された挙げ句に余剰となったものもありました。あるいは、あまりにも斬新な新機軸を採用したがゆえに、現場の検修陣は余計な苦労をし、乗務員からは嫌われるものもありました。
一方では「忌み番」というものがあります。日本では「4」や「9」がそれにあたり、例えば自動車のナンバープレートでは「49」や「42」は払い出しされません。国鉄にも「忌み番」が存在していました。形式番号に「4」がつく車両がそれといえるでしょう。なぜか、その多くが「4」という数字を形式名に与えられた車両たちは、新機軸を投じすぎたり、余剰車の活用で少数形式であったりなど、国鉄にとってはまさに「忌避すべき」数字だといえるでしょう。
ED74も、その忌避すべき数字を与えられた機関車の一つでした。
ED74の記録写真はあまり多くない。というのも、この機関車自体が6両という小数形式であったことや、北陸本線での運用はわずか6年、九州へ転用されてからは10年ほどと短かったためだと考えられる。(出典:Amazonより)
そもそもED74は、1962年に北陸本線の敦賀−福井間の交流電化延伸平坦区間で用いられる交流機として1962年に開発されました。
それまで北陸本線は、交流電化完成時から我が国で初めて本格的に量産された交流機であるED70が運用されていました。ED70は北陸本線の交流電化用として開発された電機で、田村−敦賀間で運用が始められました。
その後も北陸本線は交流電化が延伸されていきますが、大きな課題が立ちはだかっていました。もともと北陸本線は、地理的に狭隘な箇所が多く存在しました。日本海沿岸という地理条件は、気候的にも厳しいだけではなく、地形も断崖絶壁や急勾配が多くあり、建設はもちろんのこと列車の運転にも多くの苦労が伴っていました。
例えば源平の戦いでも著名な倶利伽羅峠は、北陸本線における難所の一つと言えます。1899年に北陸本線が富山まで延伸したときに建設された倶利伽羅トンネルは、急峻な倶利伽羅峠を避けて天田峠の下に掘られました。それでも鉄道にとっては難所であることに変わりなく、ここを通過する列車は補助機関車が必要でした。これを緩和する目的で、1955年に新たな新倶利伽羅トンネルが開通し、ようやく補助機関車が不要になったのでした。
また、新潟県糸魚川市付近にある親不知は、飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されて形成された断崖絶壁の地です。海岸沿いにはほとんど平地はなく、鉄道建設には相当な困難が伴いました。なんとか設置できた親不知駅は、この狭隘な断崖と海岸の間にある僅かな土地に設けられました。
1922年には、この親不知駅と青海駅間を走行中の列車に雪崩が直撃し、死者90人、負傷者40人を出す大惨事が起きました。断崖絶壁という狭隘な地形のために被害を大きくしたばかりでなく、捜索救助活動にも支障をきたしたのでした。
福井県敦賀市と南越前町の間に立ちはだかる木ノ芽峠もまた、北陸本線の大きな難所でした。建設当初は急峻かつ狭隘な木ノ芽峠を避け、山中峠を通過するルートで建設されました。それでも、トンネルは12箇所、スイッチバックが4箇所もあり、列車の運転には大きな制約が伴いました。列車の増発と高速化を実現させるためには、このルートでは如何ともし難いものがあり、戦後になって蒸機からDD50やDF50といったディーゼル機が配置されて、補助機関車三重連でようやく1000トン列車の運転が可能になりましたが、それでも増加する貨物輸送量に対応するためには列車を増発するほかなく、この難所の解消は喫緊の課題だったのです。
国鉄は増加する貨物輸送量に対応し列車増発を実現するため、全長約13kmにも及ぶ長大トンネルの建設を1957年に始め、およそ5年後の1962年に完成し、北陸本線の難所を解消したのでした。
この北陸トンネルは開通時から交流電化がされていました。田村−敦賀間の交流電化開業時から運用されていたED70だけでは所要数が足りないばかりでなく、能力的にも不足することから交流電化延伸用として新たな交流電機が必要とされたのです。
そこで国鉄は、北陸本線開業と交流電化延伸用として、EF70とED74の2つの新型交流機を開発しました。
EF70は交流機初のF級機として設計されました。主に北陸トンネル区間に存在する連続約11‰の勾配を、1000トンにまで列車単位を引き上げるにはD級機では出力不足が否めないとして、性能に余裕をもたせるためにF級機とされたのでした。
一方、これ以外の平坦区間ではF級機は性能過剰であるとして、在来の交流機と同様にD級機として開発し、それぞれの区間で運用を棲み分ける形態とされたのです。この平坦区間用として開発されたのがED74だったのです。
そもそも交流機は開発段階からD級機が主力として設計されました。直流機はF級機が主に設計・製造されていたので中形機であるD級機というのは少々違和感もあることと思われます。
黎明期の交流機には、主整流器として水銀整流器が用いられていました。この水銀整流器は、位相制御と呼ばれる交流電機ならではの制御方法が可能でした。この位相制御を用いることで、変圧器のタップ切換によって発生する電圧差を連続的に制御できるため、結果として直流機にように主電動機に印加される電圧差はなくなり、連続的に電圧を変化させることができるようになります。この位相制御が可能になったため、動輪軸の粘着力は交流機ではD級機で、直流機のF級機に相当するものとなったのです。そのため、交流機はD級機が主力としてつくられるようになったのでした。
しかし北陸本線開業用の主力としてつくられた交流機であるEF70は、動輪軸を6軸としたF級機でした。列車単位を1000トンを前提とし、さらに将来的には1100トンに引き上げることを想定していたので、強力なF級機という選択は当然でした。
ところがF級機であるEF70は、D級機と比べると製造コストは高価でした。国鉄は高価なEF70だけを揃えるのはコスト的には得策ではないと考え、北陸トンネル区間以外の平坦線では従来どおりコストの低いD級機を製造・運用するほうが良いと考えたのでした。
こうして登場したのがED74だったのです。
《次回へつづく》
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