《前回のつづきから》
1962年に製造された6両のED74は、計画通りに敦賀第二機関区に新製配置され、北陸本線の福井以北の電化区間で運用されました。しかし前にも述べたように、福井以南のEF70に形式を統一するほうが多くのメリットを創出できることから、早くも持て余されるようになったのです。
新製直後からしばらくは、北陸本線の平坦区間で客車列車や貨物列車を牽いていました。しかし、EF70が増備されていくに連れて、次第に活躍の場を失っていき、ただでさえEF70の前に牽引力も小さく6両という少数形式であるがために、運用上も不便が多くEF70に統一する方針もあって、新製から10年にも満たない時点で余剰化してしまったのでした。
北陸トンネル開通とともに開発された交流電機は、平坦線用のED74とトンネルを含む勾配線用のEF70の2形式で運用することが計画された。しかし、将来の列車単位の引き上げでは、D級機のED74では性能が不足することや、F級機であるEF70に統一した方が製造・運用ともにコストが軽減できることが分かり、ED74の製造は打ち切られた。EF70はその後も北陸本線で活躍したが、日本海縦貫線用として3電源に対応したEF81が配置されると、EF70もまた用途を失いED74の後を追うように九州へ転用された。(©永尾信幸 at Japanese Wikipedia, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
新製から10年も満たずに余剰車となるのは、国鉄にとっても好ましいものではありませんでした。国鉄が原則として独立採算制だといっても、多くは債務によって車両の製造費用を捻出していることもあって、国の会計検査の対象になっていました。新車同然の高価な機関車が10年未満で「余剰」となっては、会計検査院が黙っているはずもありません。当然、「計画性のなさ」や「無駄遣い」という指摘がされてしまいます。
ED74にとって本来与えられていた活躍の場である北陸本線は、すでにED70の独壇場となっていて、ED74が入り込む余地はほとんど皆無でした。しかし、余剰車として放置するわけにもいきません。
そこで、国鉄は同じ交流60Hzで電化されていた九州島内に、ED74を転用することを計画しました。九州であれば、電源も同じなので大きな改造をする必要がなく、最小限のコストで転用が可能でした。
1968年に実施されたダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ」改正で列車他院医が1000トンから1100トンに引き上げられると、ED74は松任工場(現在のJR西日本金沢総合車両所)で、九州への転用改造工事が施されます。九州は温暖な気候なので雪がほとんど降らないことからスノープラウが撤去されました。また、この頃に増備が続いていたED76と軸重を合わせるため、2.2トンの死重を搭載して16.8トンに引き上げられました。さらに、日豊本線で20系客車を牽くことが計画されたため、元空気ダメ管が増設されました。ただ、最高運転速度は95km/hに抑えられたことから、電磁ブレーキ装置などは省略されました。
こうして転用改造を受けた6両のED74は大分運転所へ配転され、計画通りに日豊本線で活躍を始めます。しかしこの頃にはまだ旧型客車で組成された列車が運転されていましたが、九州に配置されていたこれらの客車には電気暖房は装備されておらず、蒸気暖房が使われていたので、蒸気発生装置をもたないED74は普通客車列車に充てることはなく、蒸気発生装置が不要な20系客車と貨物列車の運用にのみ就いたのです。
日豊本線の電化が進展すると、ED74は運用の制限を受けることになっていきます。
というのも、大分以南は線路等級が低いため軸重制限がかけられていました。すでに主力となっていたED76は軸重を可変できる中間台車であるTR103を装着していたので、最低でも14トンと軽くできました。ところがED74は北陸本線用として開発されたため、軸重を可変させる中間台車を装着していませんでした。
そのため、中間台車による軸重可変機構をもたないED74は、軸重制限のある大分以南へは入線できませんでした。20系客車で運転されていた寝台特急「富士」「彗星」は日豊本線を走破して西鹿児島へ向かうため、ED74での運転となると大分でED76へ付け替える必要がありました。
また、貨物列車も然りで、主力であったED76と共通運用が組めず、しかも運転区間に制限が課せられるなど、結局は使い勝手の悪い機関車となってしまい、1974年に宮崎以南が電化開業すると次第に運用から外され、1978年のダイヤ改正をもって全車が運用を離脱、休車指定を受けて高城駅構内に長期に渡って留置されてしまいました。ED74が1962年に新製されてから16年と、国鉄電機の中では試作機を除いて短いものでした。
休車指定を受けて高城駅に野晒しのまま留置されたED74は、その後、二度と運用につくことはありませんでした。しかし、1982年に廃車手続きが取られるまで、8年もの長きに渡ってそのままとされたのには理由があったのです。
《次回へつづく》
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