旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

小さくても国鉄電機似だった私鉄電機【4】

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《前回のつづきから》

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 1965年2両が落成したED40は、計画通りに上高地線でのダム建設工事用資材を輸送する貨物列車を牽く任に就きました。建設資材という重量物を輸送するため、ED40の新製だけでなく、上高地線の軌道を強化する改良工事も同時に行ったので、輸送力も強化されたのです。

 上高地線の貨物輸送は、1965年にダム建設資材輸送が開始されてから増加の一途をたどり、1967年には年間25万トンにも達しました。上高地線の歴史で、最大の輸送実績を記録し、当然ED40もフル稼働という状態だったといえます。

 しかしながら、ダム建設用工事資材という期間が限られている貨物の輸送によって記録した輸送量であるので、いずれはこの数字も減少していき、最終的にはその貨物輸送自体も終了することになります。ダム建設が完成すれば、運ぶべき貨物もなくなるので当然の帰結です。

 早くも1968年にはダムの建設が終わりに近づき、それとともに貨物輸送量も急減していきました。1969年には荷主である東京電力が計画した梓川水系の3つのダムが完成し、建設資材輸送も終了となって、新製から4年でその用途を失ってしまったのです。

 もっとも松本電気鉄道としても、その貨物の性質から恒久的に貨物輸送が続くとは考えてなかったようで、ED40も用途を失い余剰となることは想定内のことと考えていたと推測できます。余剰となった電機はそれを必要とする他の鉄道事業者へ譲渡するということは、昔から行われていたので、松本電気鉄道もそうすることを考えていたことでしょう。

 一方、静岡県にある岳南鉄道は、自社路線の昇圧工事を実施したため、これに対応できるより強力な電機を探していました。岳南鉄道の沿線には製紙工場をはじめとした工場が多くあり、この当時は専用線も多数あって貨物輸送が盛んでした。

 余剰となったED40を譲渡先を探していた松本電気鉄道と、強力な1500Vに対応の電機を探していた岳南鉄道の思惑が一致し、1971年にED40は松本電気鉄道から岳南鉄道へと移籍、活躍の場を変えたのでした。

 岳南鉄道へ移籍したED40は、さっそく岳南鉄道線の主力電機として貨物列車の運用に就きました。ただ、岳南鉄道線は架線電圧を1500Vに昇圧を終えており、上高地線は750Vと違いましたが、ED40は複電圧車として設計されていたため、切り替えスイッチを変えるだけで運用に就くことができた一方、上高地線時代は重連運用を前提としていましたが、岳南鉄道線では単機運転を前提としていたので、重連総括制御が活用されませんでした。

 1971年に移籍以来、2両のED40は岳南鉄道線における貨物輸送で重要な役割を担いました。ロール紙を積載した有蓋車はもちろん、調味料や化学薬品などを積んだタンク車など、多くの貨物列車が運転され、中には岳南富士岡駅を常備駅に指定されている貨車もあ、物流の端部を支えたのでした。

 

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同じ機関車でも、塗装一つで印象も大きく異なる。ED402は落成以来、ぶどう色2号の塗装を纏い続けてきたので、そのデザインは新型電機でも、外装は旧型電機を想起させる。もっとも、私鉄では塗装による区分の必要がないため、汚れが目立ちにくいぶどう色2号の単色が多く使われていた。(ED402 岳南富士岡駅(がくてつ機関車ひろば) 2021年12月28日 筆者撮影)

 

 しかしモータリゼーションの進展と、それに伴う鉄道貨物のシェアの低下などにより、国鉄が貨物輸送の合理化を進めていくと、これらの貨物もトラックへの移転が進んでいき、岳南線で運転される貨物列車も漸減していきました。

 1987年の国鉄分割民営化により、貨物列車はJR貨物の所管となってからも、紙輸送はなんとか残ったものの、最盛期に比べるとその輸送量は非常に少なくなってしまっていたのです。とはいえ、他の輸送方法に切り替えることが難しかったため、民営化後も有蓋車による輸送が継続していたおかげで、ED40も活躍し続けることができ、ひいては岳南鉄道にとって貴重な収入源となっていたのです。

 一方、JR貨物は民営化直後から、車扱輸送をコンテナ輸送へ切り替える施策を進めていました。筆者が貨物会社の職員となった1991年頃からその動きは顕著になり、紙輸送にもっとも適したワム80000と同等の輸送力をもつ20フィート10トンコンテナである30Aコンテナが完成しました。このサイズのコンテナは、国鉄時代から私有コンテナとしては存在していましたが、その多くは宅配便業者や通運事業社の自社貨物輸送用が多くを占めており、リース運用をするという考えはありませんでした。

 そこで、JR貨物自身が保有し、汎用的に使える20フィートコンテナとして製造されたのが、30Aコンテナだったのです。このコンテナが製造されたことによって、ロール紙輸送をワム80000からコンテナへの移行を促進することになります。

 その一つが、東京都内にあった紙輸送貨物列車でしょう。

 中央本線にあった飯田町駅には、飯田町紙流通センターが開設され、ワム80000による紙輸送が盛んでした。最盛期には20両編成の列車が1日10本も運転されていました。しかし、コンテナ化を推進する際に、高架駅という貨物駅としては珍しい構造であるがゆえに、コキ車のような重量大型貨車の入線が困難だったため、周辺の駅でコンテナ積み下ろしをすることになり、飯田町駅は廃止になりました。このときに使われたのが、新たに製作された30Aコンテナでした。

 また、30Aコンテナではなく12フィート5トンコンテナに置き換えた例としては、同じ都区内にあった北王子線の紙輸送でした。飯田町と同じくワム80000による輸送でしたが、2003年からコンテナ化が推進され、2006年には全面的にコンテナへ置き換えられました。

 

《次回へつづく》

 

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