《前回のつづきから》
こうした流れの中で、岳南線に乗り入れる紙輸送列車は変わらずワム80000によって行われていましたが、JR貨物としては早期にコンテナへ転換したかったのです。というのも、ワム80000の最高運転速度は75km/hに留まっていたので、高速化する旅客列車のダイヤ編成上のネックとなっていたのです。旅客会社から線路を借りて貨物列車を運転するJR貨物には、早期に足の遅い貨車による列車の廃止を要請され、老朽化が進むワム80000を高速で運転できるコンテナ列車への置き換えが急務となっていたのでした。
2009年に撮影した新鶴見信号場を発車するワム80000が連結された貨物列車。最後尾にはコキ車も連なっているところから、この列車が吉原駅を経て岳南鉄道線へ乗り入れるものであったと推測できる。JR貨物は車扱貨物を早期に淘汰してコンテナ輸送へ移行させていたが、様々な理由があってこの列車は2012年になるまで運転が続けられた。有蓋車のような車両は、復路は空車返却になり効率が悪いだけでなく、最高運転速度も75km/hに制限されるなど、ダイヤ編成上のネックとなっていた。(EF66 20〔吹〕ほかワム80000+コキ車 新鶴見信号場 2008年8月3日 筆者撮影)
加えて、貨物駅の集約もJR貨物にとっては大きな課題でした。数多くの貨物駅を有するより、地域の拠点となる駅に集約し、そこへはコンテナの強みであるトラックによって集荷する方が、合理性にかなっていたのでした。吉原駅と富士駅は隣接する駅なので、同じ地域に2つも貨物駅を設定するより、どちらか1つに集約し、コンテナによって運び込む方合理的で、運転コストの軽減も実現できるのでした。
しかし、岳南線に乗り入れる貨物列車のコンテナ化が進まなかった理由として、これはあくまで推測ですが、荷主となる日本製紙での荷役設備がコンテナに対応できなかったことや、コンテナ化することで小型貨車であるワム80000よりも長大なコキ車になることによって、駅構内の有効長の関係から岳南鉄道が難色を示したことが考えられます。いずれも推測の域を出ませんが、2012年のダイヤ改正で岳南線乗り入れの貨物列車が廃止されるまで、国内でも最後までワム80000で組成された貨物列車が運転されていたのは、荷主や乗り入れ先となる岳南鉄道の事情が大きく影響したと考えられるのです。
このように多くの思惑が交錯する中、ついに2012年のダイヤ改正をもって、ワム80000だけで組成された貨物列車は廃止になり、同時に貨物列車の岳南鉄道への乗り入れも廃止されました。一部の報道では、「JR貨物が岳南鉄道に貨物列車廃止を通告」とありましたが、その文言から推測するに、ある程度一方的な廃止通告だったのかもしれません。
こうして、岳南鉄道の貨物列車が全廃になると、その主力であったED40は用途を失ってしまいました。1965年に松本電気鉄道が製造し、1971年に岳南鉄道に譲渡されるなど活躍の場を変えながら走り続けてきた小型の私鉄電機は、47年の歴史に幕を下ろすことになったのです。
鉄道車両として車齢47年は比較的長寿だったといえるでしょう。しかし、昭和期につくられた、特に機関車は頑強な設計であるがゆえに、非常に長く使われる傾向がありますが、ED40のように私鉄電機のなかでは近代的なスタイルの車両はそう多くありませんでした。
小さいながらも国鉄電機に通じるスタイルを持ち、日車が電装品から車体、台車に至るまで一切を自社で設計・製造した機関車は、戦前のものをのぞけばこのED40が唯一でした。そして、そのサイズとしては貨物用電機としては十分な性能を持ち、信州の山の中を走り、そして富士の麓で私たちの生活に欠かせない紙を運び続けてきたことは、まさに見えないところで生活を支える「縁の下の力持ち」という言葉がぴったりと当てはまるでしょう。
貨物輸送全廃後、岳南鉄道の電機たちはその用途を失ってしまった。これが昭和時代、それも鉄道貨物輸送が最盛期であれば、他の私鉄に譲渡されたさらなる活躍もできたであろうが、今日、そうした運用を行う列車は数少ない。運用が煩雑になることから、JR貨物はJR線上にある自社の貨物駅での運用に留めておきたいのが本音と推測できる。一方、末期は写真のように荷主である日本製紙(当時は日本大昭和製紙)の社名とコーポレーションマークが描かれていて、紙輸送であることが誰の目にも分かった。広告料を得た上での塗装なのかは分からないが、こうした荷主の看板を機関車に背負わせることはあまり例がなく、廃車後、展示車両となってからも維持する例は皆無に等しいだろう。(ED403 岳南富士岡駅(がくてつ機関車ひろば) 2021年12月28日 筆者撮影)
廃車後、その動向が注目されました。一時は輸送費などを購入者が負担することを条件に譲渡する話もありましたが、結局買い手はなかったため、岳南富士岡駅にその車体を佇ませていました。しかし、そのまま野晒しというのも忍びなかったのでしょう、岳南鉄道は自社を支え続けた機関車たちを展示・保存するため、「がくてつ機関車ひろば」を岳南富士岡駅構内に解説し、富士山が望める地でその雄姿を僚機たちとともに見せてくれています。特にED403は、末期は顧客である日本製紙のコーポレートマークなどをいれた特別塗装で活躍しましたが、保存後も同社の好意で再現して展示されています。恐らくは、日本製紙にとっても、このED40という機関車は自社製品を運んでくれる頼もしく、そして貴重な戦力という認識があったのかもしれません。
私鉄の電機は波乱に満ちた社歴を刻むことが多い傾向にありますが、ED40もまた落成後4年で用途を失うという憂き目に遭っています。岳南鉄道移籍後は、廃車まで他社へ移籍することがなかったことを考えると、ある意味幸せな人生だったのかもしれません。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました