旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

前歴は寝台特急、余剰で転用された「食パン電車」【1】

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 鉄道車両は製造されてからそのままの姿で与えられた役割を果たし、耐用年数が来るなどして引退していきますが、そうした例は意外と多くなく、大抵の場合は運用される線区での実態や、新型車の登場によって余剰となり、他の線区へ転用される際に大なり小なりの改造を受けています。

 例えばEF65のように、運用する鉄道事業者が変わっても、外観は大きく変化しないで「ほぼ原型」を保っているように見えますが、実際には細かい部分の改造を幾度となく受けているのが実情です。

 機関助士の乗務廃止によって有休化したスペースに、乗務する機関士の執務環境改善の一つとして冷房装置を搭載した改造により、助士席側の窓は開閉ができなくなり、代わりに給排気ルーバーが設けられています。国鉄時代では考えられなった改善により、多くの機関士はこの改造を歓迎したと聞きます。

 また、技術の進歩によって、搭載する機器を変更もしています。国鉄時代に装備していた保安装置であるATS-Sは、様々な問題を抱えていました。保安精度を向上したATS-SFに換装し、さらには高機能の保安装置となるP形の導入によってATS-PFを増設され、この面ではもはや原型とは異なるものとなっています。

 他にも挙げればキリがありませんが、一見すると国鉄時代の姿のままに見えても、細かいところで改造を受けており、機能の向上が図られているのが実情です。

 他方、原型とは大きく異なる改造を受けた車両たちもいます。

 一部では「魔改造」などとも揶揄されるほど、もはや原型の「よさ」が失われ、「ここまでするのか」という改造内容も散見されるほどです。

 一例を挙げるとすれば、「魔改造」がお家芸ともいえるJR西日本国鉄形車両でしょう。加古川線で今なお運用され続けている103系3550番代は形式こそ103系を名乗っていますが、そのデザインは通勤形電車の代表格ともいえる103系のものとは大きく異なります。

 そもそも中間電動車であるモハ102・103を種車に先頭車化改造を施したもので、JR西日本の台所事情から、新たな先頭部分を製作してつなぎ合わせるのではなく、元からある構体を最大限に活用することで改造コストの軽減をねらいました。そのため、貫通扉付の前面デザインになり、そこへ前部標識灯と後部標識灯、そして行き先幕窓を設置、車端部の座席などを撤去して仕切りを設置して乗務員室をつくるという方法をとりました。そのため、「これが103系か?」と思わせるデザインになりましたが、電装品はそのままなので走りっぷりは103系のそものだといいます。

 もっとも、加古川線用の3550番代はまだよい方で、もっと目を疑いたくなるような改造例は幾多もありますが、ここでは割愛するとします。

 さて、そんな大化けに化ける「魔改造」は、実のところ今に始まったことではありませんでした。

 国鉄も運用環境が変わったり、他の線区へ転用するなどして改造を施すことはありました。例えば、かつては長大編成を組むことが「常識」とされた特急列車も、需要の急激な落ち込みなどによって編成を短くするため、485系などは大量の先頭車を必要としました。中間電動車に運転台や前頭部を設置する先頭車化改造が行われましたが、単に運転台を設置するのではなく、量産車と同じ形状の前頭部と、同じ仕様の運転台とその機器を用意して、中間車に切り継ぎ改造を行いました。そのため改造車と言われないとわからないほど、新製車と変わらないほどきれいな仕上がりになっていました。

 わざわざコストをかけてでも、新製車と同じ形状の前頭部を用意して改造するのには、多くの理由がありました。ここでは、すでにクモハ485の記事にてお話しておりますので割愛しますが、財政破綻寸前の国鉄にとっては厳しい改造内容でしたが、それでも国鉄のプライドにかけてもそれを実行したのでした。

 一方で、昼は昼行特急に、夜は寝台を展開して寝台特急に使える「昼夜兼行」の特急形電車として581・583系がありました。登場当初は車両を運転区所で遊ばせて置く必要がなく、走らせれば走らせるほど収益が上がるとして重宝されました。581・583系が登場した当時は今日のように新幹線網がなく、長距離の移動は専ら在来線の列車にかぎられていたことと、関西圏と九州各地や首都圏と東北各地を結ぶ長距離特急列車が多数運転されていたため、昼夜兼行で使える車両の活躍が多くの利用者を運んでいたのです。

 

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在来線の特急列車網の発達が著しかった1960年代、昼夜兼行で運用することができる特急形寝台電車として登場した581・583系は、国鉄全盛期の象徴ともいえる。その設備からくる重宝さに、常に高速で長距離を走行するという見た目以上に過酷な運用がされていた。長期に渡ってそうした運用が続けられた代償として、老朽化の進行も他の特急形電車に比べて早かった。また、新幹線網が発達するにつれ、581・583系の活躍の場は徐々に狭まっていき、ついには余剰車が発生していた。(©spaceaero2, CC BY 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 しかし次第に新幹線網が発達してくると、581・583系の活躍の場は狭まっていきます。長距離を移動する利用者の多くは新幹線へ移転していき、新幹線が開通した区間では在来製の特急列車が廃止または削減されていきます。

 山陽新幹線が次第に西に延伸していくと、山陽本線と九州各地を結んでいた特急列車も運転区間を短縮し、あるいは削減されていき、博多駅まで全線開業をすると、ついに山陽本線優等列車は大規模に整理されていきました。そして、昼夜兼行で重宝された581・583系は活躍の場を失っていき余剰となっていきます。

 東北新幹線の開業は、581・583系にとどめを刺す形になりました。上野駅からは昼夜を問わず数多くの特急列車が発着していましたが、新幹線の開業によってほとんどを廃止し、581・583系は用途を失って大量の余剰車を発生させてしまいました。

 もっとも、581・583系は新製当初から昼夜兼行で運用され、かつ初期は長距離運転が状態化していました。そのため、走行距離は485系などとは比べ物にならないくらいに伸び、高速運転も相まって老朽化が進んでいました。

 一方、1980年代に入ると、国鉄は列車の運転形態を大きく変えていきました。

 従来、国鉄国電区間を除いて、優等列車から普通列車に至るまで、長距離を走る優等列車や貨物列車を主体にダイヤを編成していました。これは蒸機牽引による列車の運転形態を踏襲したもので、いわゆる「汽車ダイヤ」とよばれるものでした。

 しかし人口の増加と優等列車の新幹線移行、さらに長距離での移動はなにも鉄道に拘る必要がないほど、長距離高速バスの進展や航空機の低廉化による庶民にも手が届くようになると、1時間に多くても数本しか走らず、しかも駅間距離も長く、一度乗り逃してしまうと次の列車はすぐには来ないなど、国鉄の列車は使いづらいものになり、利用者離れが加速していきました。

 ただでさえ毎年莫大な赤字を出しているところに、利用者の他の交通機関への移転は、運賃収入を減らしてしまうことになります。近距離の移動なら、マイカーや路線バスの方が使い勝手がよく、わざわざ運転本数が少なく使いづらい国鉄を利用する理由がなくなってしまったのです。

 こうした状況から、国鉄はいつまでも「伝統」にこだわっていては運賃収入を増やすことは難しいことを認識し始めていました。

 一方、首都圏や関西圏では、電車列車による多頻度運転が行われていました。国電区間では大量の利用者をさばくために、1時間に数本、多いところでは十数本も運転するダイヤが組まれ、「国電ダイヤ」とも呼ばれていました。

 この「国電ダイヤ」を編成するためには、多くの利用が見込まれることと、列車の運転は近距離にすること、そして列車の編成は短くし、多頻度運転を実現するためには多くの車両を必要としました。

 首都圏や関西圏で実績のある「国電ダイヤ」を、地方都市の近郊区間にも導入して、乗客を呼び戻そうという試みがなされます。

 

《次回へつづく》

 

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