旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

見た目ではブルトレ牽引機 最強電機登場までのリリーフだったF形【5】

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《前回のつづきから》

 

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 1965年にP形と同じ時期に製造されたF形は、新製後に吹田第二機関区に配置されて、さっそく特急貨物列車の運用に就きました。

 特急貨物列車は操車場を経由せず、発駅と着駅を通して運転する拠点間輸送の形態をとったことで、到達時間を大幅に減らすことに成功しました。特に鮮度を保つ必要な貨物では、この到達時間の短縮は大きな意味がありました。

 幡生駅東京市場駅を結んだ鮮魚特急貨物列車は、レサ10000で組成された列車でした。下関とその周辺で水揚げされた魚介類は、関西や遠く首都圏といった大都市圏の市場で卸すために、冷蔵車を使った貨物列車によって運ばれていました。しかし、従来の貨車を使っての輸送では、最高運転速度も75km/hと低く、43時間以上もかかって輸送していました。しかし、レサ10000の登場により100km/hにまでスピードも上がり、かつ特急貨物列車として運転されたため、途中駅での停車と周辺からやってくる冷蔵車の増結もせず、発着駅の間を通して運転することで、27時間で結ぶようになりました。この当時としては驚異的ともいえる大幅な時間短縮は、積み荷となる魚介類の鮮度も高く保てるので、商品としての価値は大幅に向上したのです。このことは、荷主にとっても荷受人にとっても、そして実際に購入する消費者にとっても好評につながりました。

 海で捕れた魚介類を、出荷後3日目で卸売市場に出せることは、その分だけ価値があるということで高値で取引される可能性があり、漁業関係者や卸売業者にとって歓迎されることでした。また、少し値段は上がっても、鮮度の高い魚介類が手に入るということは、食卓にこれまでよりも新鮮な魚が出すことができる可能性を高くし、消費者にとっても喜ばしいことでした。

 言い換えれば、F形が重連で牽く鮮魚特急貨物列車は、生活を支える重要な役割の一端を担っていたといえるのです。

 

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特急貨物列車の本命が登場するまで、そのリリーフとして製造された500番代F形は、国鉄時代はもちろん、民営化後、JR貨物に継承されてい一貫して貨物列車の先頭に立ち続けた。ただ、寝台特急用の500番代P形は、東京機関区に12両が配置されたものの、所要数が12両とあまりにも余裕がなかったため、基本仕様が同じで客車の牽引も可能だった500番代F形の一部(513-517号機)は、東京機関区に新製配置されて寝台特急の運用に充てられ、花形の仕業に就いた経験をもつ。写真の518号機は残念ながらその仕業を手にすることはなかったが、特急色を身に纏ったその姿は貫禄十分だった。(EF65 518[高機] 1994年頃 新鶴見機関区 筆者撮影)

 

 その後、コンテナ車であるコキ10000の登場により、特急貨物列車はさらに拡充されていきます。コンテナ輸送は通運事業者を介して荷主の指定した場所から、送り先の指定した場所までドア・ツー・ドアで輸送できるシステムで、車扱輸送では難しかった小口個別輸送を可能にしました。従来にない新しい鉄道貨物輸送の形態で、しかも高速で走る特急貨物列車として運転されれば、当然、輸送時間も最小になり使い勝手もよくなります。顧客の獲得に必死だった国鉄にとって、これほど頼もしい存在はなかったでしょう。

 増発されていく特急貨物列車を牽くために、500番代F形は前部で17両製造され、本命であるEF66が登場するまでの間、重量のかさむ貨物列車を、長距離、高速で牽く任に充てられたのでした。

 特急貨物列車の拡充によって、運用範囲も次第に広がっていきました。当初は東海道山陽本線で運転される列車に充てられていましたが、1968年に本命であるEF66の量産車が登場すると、拠点を吹田第二区から新鶴見機関区へ移動し、運用範囲を東北本線黒磯駅まで広げていきました。これは、東海道山陽本線筋の特急貨物列車をEF66が担い、東北・北海道方面の特急貨物列車を新鶴見区の500番代F形を充てることで、F形特有の装備を有効に活用し、同時に国鉄の貨物輸送の主力商品としたのでした。

 その後、運用範囲を上越線の急行貨物列車の運用にも充てられるようになり、旧型電機であるEF15を置き換えていきました。しかし、上越線は国内有数の豪雪地帯を走るため、500番代F形とそれに乗務する機関士にとっては非常に過酷なものとなります。

 上越線で運用される500番代F形には、本来装備していなかった耐寒耐雪装備が施されました。スカートの下にスノープラウの増設や、砂撒き管などへ凍結防止ヒーターの設置、さらには一部には前面窓上につらら切りを増設するなど、ただでさえ物々しい連結器付近の重装備に加えて、さらに厳しい顔つきになっていったのです。

 冬季はこれに乗務する機関士にとっても、過酷なものとなりました。500番代F形は基本的には重連で運用される事が多かったようです。これは、上越国境の急峻な勾配を走るには、従来は補機の連結でまかなっていました。しかし、補機の増解結は時間がかかり、貨物列車の到達時間に影響を与えます。重連総括制御を備えた500番代F形であれば、最初から重連で運転することで、この補機を省略することが可能だったのです。

 しかし、豪雪地帯での折り返しでは、乗務する機関士は雪の降り積もる車外へ一度出て、折り返しで前位になる機関車の運転台まで移動することが強いられたのです。これは、500番代F形が非貫通の前面であったためで、機関士にとっては非常に過酷な作業となりました。また、深く積もった雪の中、それも鉄道構内を歩くというのは危険も伴い、ともすると転倒や溝に足を入れてしまって身動きが取れなくなることも考えられました。酷寒地でのこうした機関士の作業は、機関士にとっても文字通り命がけのものだったといえるでしょう。

 本来であれば、こうした重連運転を前提に設計された電機は、貫通扉付でなければなりません。後に登場する1000番代PF形は、上越国境超えの旧型電機を置き換えたEF64 1000番代、さらに常に貨物運用では重連が前提だったED75などは、すべて貫通扉付の前面を備えていたのも、積雪地で機関士が運転台を替えるために必要な装備で、500番代F形はこうした装備をもたない、ある意味致命的なミスキャストだったといえます。

 さらには、そもそもが暖地仕様だった500番代F形に耐寒耐雪装備を施したため、凍結防止ヒーターなどの能力不足にも悩まされました。結局、上越線のような豪雪地帯で冬季の運用に、500番代F形は不向きだったといえるのです。

 1969年に客貨両用に運用でき、重連運転を前提とした構造と、耐寒耐雪装備をもった1000番代PF形が登場し、新鶴見区へ、後に宇都宮運転所に集中配置されると、500番代F形は東北本線上越線の運用から退き、再び東海道山陽本線での運用に戻っていきました。豪雪地帯や寒冷地での運用は僅かでしたが、特急貨物列車の運転網の拡大による貨物輸送の高速化に貢献したのでした。

 

《次回へつづく》

 

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