旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

思い出の上越特急「はくたか」【3】

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《前回のつづきから》

 このように、1977年の「はくたか」は、食堂車もありスイッチバックもありで、今思うと楽しい列車だったのではないかと思えます。しかし、まだ幼かった筆者にとっては、長い旅路は少しばかり「飽き」がきてしまいましたが、それでも憧れの特急列車に乗ることができたのは貴重な体験でした。

 また、この当時の489系はすべて冷房を搭載していました。屋根の上に載ったキノコ型のキセを被ったAU12は、今日の基準でこそ冷房能力は低く、満足なものではありません。しかし、家庭にエアコンなどがほとんどない、ともすると乗用車にすらエアコンなど装備していないのがあたりまえの時代の中で、全車冷房装置をもつ特急列車は、天井から冷えた空気を吐き出して、涼しく快適な旅を保証してくれるものです。ですから、「はくたか」の旅はとても快適で飽きてしまったこと以外はとても楽しいものでした。

 その後、「はくたか」は1978年のダイヤ改正で、車両の受け持ちが向日町運転所(大ムコ)から金沢運転所(金サワ)に変更されます。大阪鉄道管理局配置の車両が、自区内に発着しない列車の運用に充てられ、しかも遠く上野駅発着の列車に充てられるという広域運用に終止符を打ちました。また、この受け持ち変更で食堂車の連結がなくなり、長時間長距離を移動する乗客のお腹を満たしてくれるのは、車内販売か駅の売店で売られている駅弁だけとなります。すでにこの頃から食堂車の営業成績は低迷し、加えて地上のレストランと比べて、揺れる車内と勤務時間が列車の運転時刻に縛られるという不規則さからくる過酷な労働環境から、列車食堂で働く食堂車乗務員の確保も難しくなり、営業が縮小され始めていたのです。このことから、1970年代終わり頃から食堂車の凋落が始まり、それを具現化するかのように「はくたか」から食堂車が消えていったのでした。

 「はくたか」に大きな転機が訪れたのは、やはり1982年の上越新幹線の開業でしょう。前年の東北新幹線の開業で、上野駅と東北地方を結んでいた優等列車が大整理され、急行列車はもちろんのこと、特急列車も一部を除いて廃止されました。当然、上越新幹線の開業によって、「はくたか」はもちろん、上野駅新潟駅を結んでいた「とき」も廃止なり、列車名が上越新幹線に引き継がれていきますが、「はくたか」は上野駅長岡駅間が全面廃止になり、残った長岡駅金沢駅間は「北越」に統合されて、「はくたか」は消滅してしまいました。

 ところが、一度は消滅した「はくたか」が、再び上信越の鉄路を走る日がやってきました。

 1987年、国鉄分割民営化されたその年に、北越急行ほくほく線が開業したことにより、「はくたか」は不死鳥の如く復活したのです。

 

 

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上越新館瀬野開業によって廃止された「はくたか」は、上越新幹線越後湯沢駅から北越急行ほくほく線を経由し、金沢駅までを結ぶ連絡特急として復活した。復活当初はJR東日本485系3000番代を、JR西日本485系を、北越急行JR西日本の681系をベースにした681系2000番代を用意し、三社による共同運行となった。後に「はくたか」の速達化のためにJR東日本が撤退し、JR西日本が681系と683系を投入した。写真上は、北越急行の683系8000番代で、JR西日本と仕様は同じだが塗装が異なり「スノーラビットエクスプレス」という愛称がつけられたが、金沢総合車両所に常駐してJR西日本の車両と共通運用された。写真下はJR西日本の683系4000番代で、本来であれば「サンダーバード」用の車両であるが、代走として「はくたか」の運用に入ることもあった。(上:683系8000番代N03編成[北越] 2013年7月29日 富山駅 筆者撮影  下:683系4000番代T12編成[金サワ] 2013年7月29日 富山駅 筆者撮影)

 

 北越急行ほくほく線は、もともとは国鉄北越北線として、当時の鉄道建設公団の手によって建設が始められました。しかし、鉄道建設公団は次々と鉄道線を建設していくものの、その多くが地方開発線(A線)と地方幹線(B線)で、完成後は国鉄に無償貸付あるいは譲渡されることになっていましたが、そのほとんどは収益が見込めないローカル線であり、半ば強制的に引き受けた国鉄の経営を圧迫していたのです。

 北越北線も、国鉄の分割民営化が決まった時点で、すでに50%以上の工事が終わっていました。しかし、天文学的数字とも言われる莫大な債務を抱え、それが原因で終焉を迎えようとしている国鉄に収益の見込みがない新線をさらに引き受けさせるのは適当でないことから、建設が凍結されていたのです。

 とはいえ、新しい鉄道路線の開業は、地元の住民にとっては(すべてでないにせよ)待ち望むことでした。税金を投入して建設し、すでに半分以上の工事が終わっている路線を完工せずに放棄することは、税金の無駄遣いとして批判の誹りを免れません。

 そこで、国鉄以外の引き受け手があることを条件に建設を境することが決まります。北越北線の開業を望んだ地元新潟県や沿線の市町村や銀行、さらに東北電力までもが出資して第三セクターである北越急行株式会社を設立し、北越北線を引き受けることになったのです。

 こうして建設が凍結されていた北越北線の建設工事は再開され、1997年に北越急行ほくほく線として開業に漕ぎ着けたのでした。

 

《次回へつづく》

 

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