《前回からのつづき》
三島会社よりも厳しいといわれた貨物会社には、必要最小限の車両と人員、そして施設を継承させました。貨物会社には長大な線路を保有させず、旅客会社が保有する線路を借りて自社の列車を運行させる「第二種鉄道事業者」とし、その線路使用料もアボイダブルコストルールと呼ばれる特殊な方法で計算した金額を旅客会社に支払うようにし、できる限りコスト負担のかからないシステムにしたのです。
この方針の一つに、駅や運転区所構内の資産保有が挙げられます。例えば筆者が勤務した横浜羽沢駅を例とすると、コンテナホームやそれに付帯する施設は貨物会社が保有していますが、本線はもちろん、副本線といった運転に重要な役割を果たす施設は旅客会社が保有しています。当然、これらの信号機器も基幹となる部分は旅客会社で、付帯する貨物関連の機器が貨物会社のものでした。こうしたことから、信号保安設備の境界は非常に複雑で、軌道回路ごとにどちらの会社が保有しているのかが決まっているので、実際の保守管理もまた煩雑でした。
例えば、貨物駅構内の転轍機が不転換を起こし、入換作業に支障が出たとします。そこで、駅の信号取扱所から連絡を受けた電気区(後に保全区)の職員が出動して、不転換の原因を探ります。電気転轍機本体や付帯する機器が故障した場合は、それらを交換すれば障害を取り除くことが可能です。
ところが、それらの機器ではなく、起動回路を構成する継電器が原因だった場合、その継電器がどちらの会社の管轄にあるかによって対応が異なります。信号保安設備を構成する多くの継電器は、貨物会社ではなく旅客会社の管轄にあるので、貨物会社の電気区は手出しをすることができません。目の前に故障した機器があり、それを交換すれば障害を取り除くことができるのですが、勝手に触ることができないのです。
かつて、分割民営化間もない頃はJR職員による直轄作業も多かった。国鉄時代の流れを色濃く組んでいたためで、現場における知識と技術力、そして豊富な経験をもつ職員が多かったため、こうして現場へ出向いて調査や作業をしていた。一部の業務は協力会社へ委託していたが、すべてではなかった。また、写真は高島線千若踏切付近での作業の様子を捉えたものであるが、手前に写る信号機器箱はJR貨物のものではなく、JR東日本の管轄だった。作業中の職員の後ろに写る2本の線路は本線であり、これもJR東日本が保有するもので、さらに後方に連なるように留置されているホキ2200がいる線路は、東高島駅構内扱いとなる日本製粉の専用線である。こちらは、日本製粉が保有する専用線だが、保線管理はJR貨物が担っていた。このように、一見するとどこの会社が保有し、保守管理を行っているかわかりにくいが、このようにお互いの会社が受委託しながら、貨物輸送を支えていた。(高島線東高島駅 千若踏切付近 1992年頃 筆者撮影)
そのため、この継電器を交換するために、貨物会社の電気区職員は旅客会社の信号通信区に通報します。旅客会社の信号通信区はその復旧のために職員を出動させて、ようやく障害が復旧できるのです。
このように、目に見える車両や線路はもちろん、諡号機器や電力設備といった目に見えにくいものに至るまで、じつに多くのものが貨物会社の負担にならないように配慮され、その管轄が決められているのです。
車両でいえば、特に機関車がわかりやすいでしょう。貨物列車を運行するために欠かすことのできない機関車は、分割民営化のときに形式や両数をかなり絞り込まれていました。平坦線区の主力となるのはEF65で、大多数が貨物会社の所属になりました。しかし、その数は貨物輸送の需要などから最小限に絞られました。しかし、分割民営化後のバブル景気によって輸送量が増加し、継承した車両だけでは賄いきれなくなったことから、1987年までに余剰車として廃車になり、清算事業団の保有となった一部の車両を「購入」し、整備・車籍復活をした上で現役に戻しました。
また、高速貨物列車の主役として重宝されたEF66は、ブルトレ牽引用としてJR西日本に継承された以外は、すべて貨物会社に継承されました。これもまた、輸送量の増加に対応するため、列車を増発したことから所要数が足らなくなり、基本設計は国鉄時代とほぼ同じに、車体のデザインを変えた100番代を新製しました。このように、1987年の分割民営化の時点で、ぎりぎりまで絞り込んだ最小限度の数としたことがおわかりいただけるでしょう。
そのことは、貨物輸送を支える職員についても同じでした。
《次回へつづく》
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