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日本のディーゼル機関車の開発は、欧米のそれと比べてしばしば「ガラパゴス」といわれるほど、独特の進化を遂げてきました。それというのも、欧米では車両の開発の多くは車両製造メーカーが担っていたのに対し、日本では運用者である国鉄が自ら取り組んでいました。もっともどちらが優秀で、どちらが劣るなどということは言うことができません。それは、欧米の国力に比べて日本はそれに及ぶ技術力も資金もないのが実態だったので、国が運営する公共企業体である国鉄であれば、資金面についてはさしたる問題にはならず、新たな技術の開発が可能だったということだと考えられるのです。
日本のディーゼル機関車の開発は、第二次世界大戦前に当時の鉄道省で始められました。といっても、日本には内燃機関を開発する知識も技術力もなかったので、電気機関車と同じように海外からサンプル品として少数の車両を輸入し、それをリバースエンジニアリングという手法で技術的な見地を得ようとしたのでした。
この方法は、よくいえば「先行品を参考にする」、悪くいえば「他人の技術を盗む」ようなもので、その昔は当たり前におこなわれていたようだが、知的財産権というのが重要視されるようになった今日においては、訴訟の対象にもなりかねないものです。しかし、1930年代は知的財産権など知られていないこともあり、こうした「参考品」としての輸入機を少数購入し、国産のためにその技術を導入するということは多くされていました。
1929年にDC11を、翌1930年にはDC10をそれぞれ1両ずつドイツから購入し、その成果をもとにして初の国産ディーゼル機として1935年に試作されたのがDD10でした。
DD10は、DC10とDC11をもとにしていますが、外観は電気機関車にも似た溶接構造の箱型車体をもち、およそディーゼル機とは思えない洗練されたスタイルでした。もっとも、ディーゼル機にとって肝心なのはエンジンで、DD10には新潟鉄工所製の直列8気筒4サイクルエンジンが搭載されていました。このエンジンは、出力600PSと現代のものと比べればかなりの非力でした。また、エンジンから直接動力を取り出すのではなく、発電機に繋げて電気を起こし、その電機で電動機を動作させる「電気式」を採用していました。この方式はディーゼル機を開発する上で非常に簡便で、電機と部品を共通化できる可能性があるなどのメリットがありましたが、反面、発電機や主電動機といった電装品を装備しなければならないので、車両重量が重くなるなどのデメリットも抱合していました。
国鉄の前身である鉄道省が試作した電気式ディーゼル機関車DD10は、輸入機であるDC11に倣って国産化したものだった。エンジン出力は600PS/900rpmと当時としてはそれなりであり、高回転の方であったが今日のエンジンと比べると低回転エンジンである。1両だけが試作されて小山駅で入換運用で使われたが、騒音と振動が激しく実用的な域には達していなかったという。その後、第二次世界大戦に入り燃料統制などによって使用休止となり大宮工場で保管されていたが、戦後になっても運用に戻ることなく1947年に廃車となった。(出典:車両の80年 日本国有鉄道工作局 パブリックドメイン)
とはいえ、1930年代の工業力や技術力からすると、電気式を選択せざるを得なかったので、当然のことともいえるでしょう。
試作されたDD10は小山機関区に配置されて入換作業に使われましたが、輸入タンク機である2120形蒸機とほぼ同じ能力とされ、入換用途以外には使われることなく、加えて激しい騒音と振動はディーゼルエンジンの製造技術が未熟であることを露呈し、多くの故障や不具合もあり実用機としての水準に達するためには、数多くの課題を克服する必要がありました。
その後、鉄道省は気動車の開発も進めますが、エンジンは軽油を燃料にするディーゼルエンジンではなく、ガソリンを燃料にしたガソリンエンジンを搭載した「ガソリンカー」を実用化しました。
キハ04を始祖とするガソリン動車は、出力100PSのGMF13を搭載。車体を大型化しエンジン出力も200PSにまで強化したGMH17を搭載したキハ07も開発して、非電化路線へ投入しました。これらガソリン動車は、変速機は「機械式」と呼ばれるクラッチとギアを使うもので、運転士はさながら自動車のマニュアルミッション車と同じような操作を必要としました。そのため、今日の気動車に見られるように、総括制御を前提とした何両も連結しての運用は不可能で、できたとしてもそれぞれの車両に運転士を乗務させて運転操作をする「協調運転」が不可欠でした。
また、燃料にガソリンを使うことは、万一、脱線転覆事故を起こしたときに漏れ出したガソリンに引火し、爆発炎上する危険もはらんでいました。ガソリンは「揮発油」と呼ばれるように、非常に気化しやすい性質を持ち、気化したガソリンも引火しやすいものです。当然、燃料タンクなどから漏れ出した場合、火気は厳禁であり、不用意に火気を近づけると燃焼してしまいます。
実際、1940年に西成線(現在の桜島線、通称「JRゆめ咲線」)で起きた列車脱線火災事故では、走行中に脱線転覆したキハ07から漏れ出したガソリンに、何らかの原因で発生した火花が引火し、火災を引き起こしました。冬季の乾燥した空気と強い風が吹くという気象条件も重なり、脱線したキハ07は全焼。死者189人、負傷者69人を出すという大惨事を起こしました。この被害者数は、第二次世界大戦後に起きた三河島事故(死者160人)や鶴見事故(死者161人)、更に国鉄分割民営化後に起きた福知山線脱線事故(死者107人)を大きく上回り、列車火災事故としては桜木町事故(死者106人)よりも遥かに多く、事故の凄惨さを物語るとともに、鉄道車両の燃料としてガソリンを使うことの危険性を指摘されるものとなったのです。
戦前から国鉄は内燃機関による動力車の開発は進めていた。しかし、当時の工業技術力では強力で実用可能なものを実現することは難しかった。ガソリンエンジンであるGMF13は当時の鉄道省が実用化に漕ぎ着けた内燃機関で、キハ41000(キハ04)に搭載して運用することができた。そのGMF13のシリンダーを増やすことで出力向上をねらったのがGMH17であり、キハ41000よりも車体が大型になったキハ42000(キハ07)に搭載していた。しかし、燃料が揮発性が高く引火爆発しやすいガソリンであったため、西成線での列車脱線転覆火災事故では、漏れ出した燃料に引火し車両は全焼、189人の死者を出す日本の鉄道史上、最悪の事故を起こした。そのため、ガソリンを使用することの危険性が指摘され、戦後にディーゼルエンジンが実用化に至るまで放置されることになった。(キハ07 41 ©Rsa, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
こうした事故などとともに、第二次世界大戦に入っていった日本の燃料事情は極度に悪化し、戦略物資でもあるガソリンをはじめとする石油の供給規制もあって、ガソリン動車の使用は中止され、またガソリンよりも安全な軽油を使うディーゼルエンジンの開発も中断を余儀なくされました。
戦後になり、国鉄が再び気動車を開発することになりますが、西成線の事故でガソリン動車の使用は禁忌になり、代わりとしてディーゼルエンジンの開発は急務となったのでした。
そうした事情もあり、戦前に基本設計が終わっていたディーゼルエンジンの開発を進めました。こうして、国鉄で初めての制式エンジンであるDMH17が実用化に漕ぎ着け、火災事故を起こして長期に渡って使用中止になっていたキハ07のエンジンを換装し、運用に戻すことができたのです。
一方、国鉄の動力車は、一部が電機や電車で運転されていたものの、ほとんどは蒸機が占めていました。石炭を燃料とする蒸機は、戦後の石炭の質の悪化や、経済復興により吐き出されるばい煙が問題視されるようになります。燃料コストの高い石炭とそれを使う蒸機から、電機やそれに代わる新たな動力車が求められるようになります。DMH17の実用化により自信をつけた国鉄は、非電化路線で運用できる新たな機関車の開発を始めることになります。
《次回へつづく》
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