旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「お家の事情」で構造が異なっても同一形式を名乗った北の交流電機【5】

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 北海道専用交流電機として、ED75 500番代の試作の後、量産形式として登場したED76 500番代は1968年から製造が始められました。同じED76という形式を名乗っていても、制御装置にはサイリスタ位相制御を採用し、蒸気発生装置も大型で強力なものを装備。さらに、数多くの耐寒耐雪装備を施され、重量貨物列車の牽引を重連で運転することを想定して重連総括制御装置をもち、前面も貫通扉付になるなど同じ形式とは言い難いほど大きく変化しました。

 そのED76 500番代は全部で22両が製造され、岩見沢第二機関区に配置されます。

 当初の計画通りに、22両の500番代は函館本線の電化区間である小樽−旭川間で客車列車や貨物列車を牽く任に就きます。

 この区間では711系による電車列車も運転されていましたが、それは札幌都市圏を中心にした電化区間だけの列車で、ほかの非電化区間に直通する列車は気動車か客車によるものでした。

 

ED76 500番代が装着していた台車は、ED74以来の「ジャックマン方式」と呼ばれる、引張棒を台車枠下部から伸ばして台枠と連結して動力を伝えている。そのため、心皿がない仮想心皿台車であり、この引張棒の力点をレール面に下げて粘着力を確保していた。この仮想心皿式台車はD級交流機の標準台車となり、さらにはF級機であるEF71にも装着されていた。

また、中間台車は九州向とほぼ同一で、枕ばねに空気ばねを用いたTR103を装着していた。九州向の0番代・1000番代は乗り入れる路線の軸重制限に対応するために、空気ばねの空気量を調整していたが、500番代は軸重16トンにも絶えられる軌道改良が済んでいたことから、蒸気発生装置に使われる大容量の燃料や水の重量変化に対して軸重調整を宇する目的で使われた。(上:DT129 下:TR103 いずれもED76 509のもの。2016年7月26日 小樽市総合博物館 筆者撮影)

 

 500番代が登場した1968年当時は、まだ多くの旧型客車が運用されていた頃で、当然、その先頭には500番代が立っていました。冬季には強力な蒸気発生装置から高圧蒸気を送り込み、厳しい寒さの中を旅行者たちを温めて運びました。また、動力の近代化にも貢献し、蒸機が多かった道内において無煙化を促進し、沿線住民の悩みであったばい煙からも解放したのです。

 電気機関車になったことで、列車の運転速度の向上も果たしました。特に、札幌発着の長距離夜行列車は客車によって運転されていました。

 国鉄時代、北海道内の優等列車の多くは函館を基準に設定されていました。これは、本州、ひいては国鉄にとって「中央」とする東京を基準にし、青森から運航されていた青函連絡船との接続を重視していたからです。

 そのため、札幌は今日のように鉄道の運転系統の中心ではありませんでした。しかし、北海道の中心地であることには変わらず、多くの人が住んでいることはもちろん、道内各地からも訪れる人は多かったのです。また、函館から道内の主要都市に特急列車が運転されていたとはいえ、札幌を経由して道内各地に出向く人もいれば、道内各地と札幌の間にも人の往来はあるので、長距離列車の需要はありました。

 また、北海道内は札幌都市圏である小樽―旭川間の電化区間を除いてすべて非電化であり、複線区間も都市圏だけで「本線」を名乗っていても単線区間も多くあるので、本州と比べて同じ距離でも時間がかかってしまいます。そのため、夜行列車も数多く運転されており、寝台車も連結されていました。

 そうした列車の先頭にも、500番代は立っていました。もちろん、電化されている短い区間だけですが、それでも到達時間の短縮に貢献したと考えられます。

 やがて旧型客車も老朽化が進んで、代替となる50系51形客車が新製が始まり、配置されてきます。ラッシュ時の混雑にも対応できる設備を整えた新しい客車は、札幌都市圏を中心に運用され、中には長大編成を組んだ普通列車も運転され、その先頭に500番代が立っていました

 

小樽市総合博物館に保存されているED76 509の正面。基本的なデザインは国鉄電機標準のもので、重連運用に備えて貫通扉を備えている。ナンバープレートはブロック式で、そこに切り文字を貼り付けている。前面窓上には氷柱に対する庇が設けられ、その両脇にはメッキ処理された飾り帯が巻かれていた。貫通扉左下方にある丸型のシャッターは電機警笛器で、電車など使われる物とほぼ同じだった。これは、冬季に屋根上の空気笛が凍結した場合に備えたものと考えらるが、実際には空気笛と一緒に使われていたのではないかと推測している。(ED76 509〔空〕 小樽市総合博物館 2016年7月26日 筆者撮影)

 1980年代に入ると、ED76 500番代を取り巻く状況が刻々と変わっていきます。

 国鉄が抱えた莫大な債務はその経営を圧迫し、旧来からのやり方ではその再建は叶いません。その債務を減らすために、国鉄は合理化を推し進めていきます。長大編成を組んだ普通列車の短編成化、客車列車の電車化・気動車化による運用コストの削減など、様々なことに取り組んでいきます。

 この合理化こそが、いよいよED76 500番代の立場を危ういものにしていきました。

 また、一方の活躍の場である貨物列車も、1970年代後半に入ると輸送量も激減していきました。そのため、北海道内でも貨物取扱を廃止する駅が相次ぎ、やがては貨物列車自体の運転本数も減らされていきます。

 もっとも、北海道の貨物輸送は本州とは大きく異なる点がありました。国鉄が旧来から採用していたヤード継走方式はありましたが、その規模は本州に比べて小さい方でした。本社指定組成駅となる操車場は五稜郭駅のみで、これは青函連絡船で航送されてきた貨車を組成する機能をもっていたためでした。

 ほかにも地区指定組成液となる操車場がありましたが、北海道で最も重要な貨物輸送は「石炭」でしょう。道内各地で産出される石炭を国内へ出荷するために、炭鉱近くのありとあらゆる駅には小規模のヤードを備えて貨物列車で発送していました。言い換えれば、北海道の鉄道はこの石炭輸送のためにあったと言っても過言ではなく、貨物輸送だけでなく、炭鉱を中心につくられた集落は旅客輸送も生み出していたのです。

 しかし、1950年代から始まった燃料の石油への移行は、国内の需要を減らしていきました。また、安価で品質の良い外国産の石炭が輸入されると、品質も低く価格が高い国内産は太刀打ちできなくなっていきました。そのため、品質面でもコスト面でも競争力を失った国内の炭鉱は次々に閉山されていき、石炭輸送は衰退の一途を辿っていきます。加えて、1970年代終わりから1980年代はじめにかけて相次いだ炭鉱事故は、国内の石炭採掘にとどめを刺す形になり、釧路炭田と小規模な露天掘り炭鉱を除いてすべて閉山し、鉄道による石炭輸送も全廃、ED76 500番代の活躍の場は一層狭められてしまいました。

 

《次回へつづく》

 

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