旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

日光・鬼怒川路を駆け抜けた6050系 『リユース』の先駆けとなった更新車【3】

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《前回の続きから》

 

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 1985年から6000系を更新する形で登場した6050系は、種車となる6000系が運用を離脱した順で施工されていきました。そのため、一時は6000系と併結運転をする姿も見られたようです。

 一方で、更新工事を進めていく中で、車両の所要数が不足することが懸念されました。これは、6000系の運用離脱と更新工事施工のための工場への入場が多くなったためと推測されます。

 いくらサービス向上のための工事とはいえ、必要な車両を不足するほど運用から離脱させる方法は例がありません。これは、野岩鉄道開業とそれに伴う直通運転の開始まで時間的に余裕がなかったことは、その要因の一つとして考えられます。

 この不足する車両を補うため、6050系は一部が新製されたのです。

 新製された6050系は、基本的な仕様や機器は更新車と同じでした。大きく異なる点は、更新車が6000系から譲り受けた鋳鋼製ミンデンドイツ式軸箱支持装置をもつFS357・FS057を装着していましたが、新製車はS形ミンデン式軸箱支持装置のFS529・FS029を装着していました。この台車は、軸箱支持装置がミンデンドイツ式に比べて構造が簡単で台車長さが短く、床下スペースに余裕を持たせることを可能にしました。また、まくらばねも更新車はベローズ式空気ばねを採用していましたが、新製車はダイヤフラム式空気ばねとなり、検修の面でも保守性を容易にさせました。

東武6050系は、6000系種車に更新改造を施して登場したグループと、まったくの新製されたグループに分けられる。全車は種車由来のミンデンドイツ式であるFS357/057を装着していたの対し、新製車グループはS形ミデン式であるFS329/029を装着していた。更新車グループは可能な限り、種車の機器類を再利用したため、台車についても流用されている。一方、新製車はミンデンドイツ式の新製台車を装着する計画だったと言われているが、様々な事情でS形ミンデン式に変えられた。(FS029 クハ62102 2019年12月28日 筆者撮影)

 

6000系からの更新者が装着していたFS357/057。軸箱支持はミンデンドイツ式で、上掲のFS329/029と比べると、軸箱を支える板バネが長く、それに対応して台車枠自体も長くなっている。このこが、床下機器の艤装に制約を課すことになり、新造車では台車全長を短くとることができるS形ミンデン式に代えられた。(FS257 ©Tennen-Gas, CC BY-SA 3.0 出典:Wikimedia Commons)

 

 その他の機器は新製車も更新車も同じだったため、運用も分けられることがなく、車両番号も更新車の続き番号とされたため、両者の識別は台車を見ることが最も分かりやすかったとえます。

 また、特筆すべきは、6050系東武だけが製作・保有したのではないということでしょう。直通先になる野岩鉄道会津鉄道も、6050系を新製して保有しました。同一形式の車両を異なる会社が製作して保有するという例はあまりなく、整備新幹線の開業により並行在来線として切り離された三セク鉄道がJRから譲受した例を除くと、この6050系ぐらいしか筆者は知りません。

 野岩鉄道が製作・保有した6050系は1000番代として、会津鉄道は2000番代として区分されましたが、車体の表記法が独特で、61151や62151のように記されていました。このまま読んでしまうと「ろくまんせんひゃくごじゅう」となりますが、東武では「ろくせんごじゅうのせんいち」のように読まれたといいます。

 こうして更新ないし新製によって登場した6050系は、当初の計画通りに1985年の登場時から、6000形に変わって日光・鬼怒川方面へと運行する快速列車に充てられていきました。

 快速列車に国鉄急行形にも通じる2ドア・セミクロスシートの車両とは、少々贅沢のような気もしますが、これは当時の東武の列車種別の設定によるものでした。特急はDRCによる運行で、「けごん」「きぬ」の愛称をもつ列車でした。また、今日では特急として運行されている「りょうもう」も、1985年当時は急行の種別で、1800系を使用していました。これら特急と急行は運賃の他に料金を収受する有料列車でしたが、快速は料金不要の速達列車だったのです。

 

客室の設備は優等列車を補完する快速での運用を主とし、観光客輸送を担うことからセミクロスシートとなった。扉間に設置された座席は、国鉄の急行形や近郊形に多く見られた固定式ボックスシートであるが、肘掛けの造りは私鉄の車両らしくモケット貼りになるなど、印象が大きく異なるものであった。座席の背ずりはクッション材が詰められ、背部と頭部が独立した造りとして座り心地に配慮したものだった。(クハ21102 下今市駅 2019年12月28日 筆者撮影)

 

 また、8000系をはじめとする通勤形車両で運行する速達列車は、伊勢崎線では準急または区間準急が設定されていました。快速は都心に近い浅草と、観光地である日光・鬼怒川方面を結ぶ長距離速達列車としての性格をもたせたため、接客設備のグレードが高い6050系がもっぱら充てられていたのでした。

 その後、しばらくは大きな変化もなく、6050系は日光・鬼怒川方面への観光客輸送を続けました。

 伊勢崎線に大きな変化が訪れたのは、2003年の営団半蔵門線東急田園都市線との直通運転が開始されたことでしょう。それまで、伊勢崎線沿線と都心部を結んでいたのは、営団日比谷線と直通運転する列車だけで、東武車と伊勢崎線に乗り入れる営団車は、中目黒までの運行でした。当時、営団日比谷線東急東横線にも乗入れていましたが、東急車と東横線に乗り入れる営団車は、伊勢崎線へ乗り入れることがなく、運用は完全に別れていたのです。そのため、東急7000系や1000系が日比谷線を経て伊勢崎線を走ることはなく、その逆に東武2000系や20000系が東横線を走ることはありませんでした。

 しかし、営団半蔵門線東急田園都市線との直通運転開始では、東武が用意した30000系は渋谷を経て、東急線上を走り遠く中央林間まで乗り入れることになりました。逆に、東急8500系も押上を経て南栗橋まで運行されることになり、総延長100km以上になる長大な距離を走る直通運転が実現したのです。

 この直通運転を機に、区間準急は半蔵門線田園都市線乗入れ用の種別となりましたが、この時点では6050系に大きな変化はなかったのです。しかし、この直通運転は、この後に行われることになる白紙ダイヤ改正の布石にもなりました。

 2006年、伊勢崎線の白紙ダイヤ改正が実施されます。特に大きな変化になったのは、かつて有料列車として設定されていた「りょうもう」(1999年に運転速度の向上により特急へ格上げ)の種別であった急行が、通勤形車による列車種別になり、準急に代わって設定されました。この新たな急行の設定によって、急行は通勤形車両での運転、格下の快速は急行形車両ともいえる6050系での運転と、種別と車両設備の面で逆転してしまったのです。

 

6050系は特急など優等列車を補完し、観光客輸送を酒とした列車で運用することを目的としていたが、Mc+Tcの2両編成を基本とし、輸送量に応じて2両単位で増減できる柔軟性をもたせた。浅草から快速として6両編成、多い時には8両編成を組んで長い距離を運行されることもしばしばあり、写真のように6両編成も多く見られた。2006年のダイヤ改正では、快速だけでなく区間快速も設定されたが、急行は半蔵門線田園都市線直通の列車の種別となったため、国鉄・JRの列車種別の概念でいえば設備面などで「逆転」したものとなった。(©Comyu, CC BY-SA 3.0  出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 もっともこの概念は、国鉄・JRの列車種別の定義に合わせた考え方なので、私鉄である東武がこのことを意識したり、あるいは定義していたりしていたかはわかりませんが、当時は一般的に国鉄・JRの種別設定は私鉄でも概ね採用されていたので、こうした考え方は間違いとは言い切れないでしょう。いずれにしても、快速は接客設備も格上である6050系によって運転され続けたことは、これ以後の列車種別の定義は変革期を迎えたともいえます。

 

《次回へつづく》

 

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