旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「目蒲線」が走っていた頃の「多摩川園駅」〔2〕

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《前回のつづきから》

 デハ3500は電装品をはじめとした機器類だけでなく、車体もまた時代とともに大きく変化していきました。

 登場時はよくある私鉄旧型電車の体裁で、丸みを帯びた折妻に近い意匠の非貫通前面と、丸屋根をもつシル・ヘッダー付きの車体でした。前部標識灯は前面幕板上部に1個、後部標識灯は前面裾部に左右1個ずつ、吊り掛け式のものを設置した、関東私鉄で多く見られたものでした。このスタイルは、デハ3450が末期まで維持したものとほぼ同一でした。

 しかし、時代が進むに連れて、デハ3500はその時代に合わせた更新改造を受けることになります。窓枠をアルミサッシに交換したり、片運転台化して乗務員室を全室構造へ変え、さらには前位側の客用扉を移設して、乗員用扉を追設しました。

 もっとも大きく変貌したのは、屋根を張り上げ構造に変えたことでしょう。雨樋を撤去して張り上げ屋根にし、その部分まで塗装したことで全体的に丸みを帯びたスタイルになりました。さらには前面の1個だけ設置されていた前部標識灯と、腰部の後部標識灯は撤去され、代わりに前面窓下の左右に前部標識灯と後部標識灯を一体化させたユニットを設置しました。この改造のため、ただでさえ張り上げ屋根になって丸みの強い印象をもつスタイルになったのに加えて、アクセントにもなっていたであろう前部標識灯もなくなってしまったため、ますます丸みを強くしました。このデザインは、「海坊主」とも呼ばれるほど強烈に変化しました。

 相当な「近代化」を加えられたことで、デハ3500のイメージは大きく変わり、そのことも「長寿」へと至る「秘訣」にもなっていきました。

 行先表示も、初めは行先表示板を前面窓下中央に吊り下げていました。これは主に乗務員が取り替えていましたが、その手間を省くため「目黒↔蒲田」のように両矢印式の表示でした。やがて、悪天候時の負担を減らすため、横長の表示版を室内の車掌台側に設置するようになります。最後は、この室内表示板を設置したい位置に、電動式の行先表示器が設置されます。表示器の中には蛍光灯も設置されていて、夜間の視認性を向上させるとともに、複数の表示版を常時車内に保管する手間をなくしました。

 このように、新製時の面影はどこかへ行ってしまったかのような大きな変化を遂げましたが、大きく変わらないものもありました。

 一つは、22両のうち1両を除いて、前面は登場時と変わらず非貫通のままとされたことでした。兄弟車でもあるデハ3450は、その時々の運用状況に合わせて貫通構造にするなど、多種多様な改造が施されました。50両が製造されたデハ3450は、全車が引退するまでに1両ごとに表情や細かい仕様が異なるとさえ言われたのに対し、デハ3500は基本的にこうした改造を受けませんでした。唯一の例外はデハ3508で、デハ3500で唯一、貫通扉が追設されました。

 また、車内は基本的に更新時以外は大きく手を入れられず、床面は板張りのままでした。座席はグリーンのモケットが張られ、端部は転落防止柵を兼ねた肘掛けがある程度で、網棚に伸びるスタンションポールはありませんでした。

 このように大規模な更新工事が施されたのとは対象的に、車内はある程度はリフレッシュはされたと思われますが、両運転台から片運転台へ、乗務員室は半室式から全室式へとレイアウトが変更された程度でした。

 ところで、筆者のとってのデハ3500の思い出というと、中学生の頃に、目黒から蒲田まで乗り通したときのことです。何となく乗ってみたくなり、当時、既に貴重になりつつあった吊り掛け駆動独特の音を楽しんだものでした。

 車掌が笛を吹いて発車の合図をすると、車掌スイッチを操作するとともに、ドアエンジンのシリンダーに空気が込められる独特の音を鳴らして、片開き扉が勢いよく閉められます。扉が閉まったことを知らせる「運転士知らせ灯」は、運転席の真ん前、窓下にある金属の筒状のケースの中にあり、そこに開けられた小さな穴が、その役目を果たしていました。この知らせ灯がついたことを確認すると、運転士はブレーキハンドルを「緩解」の位置に動かしてマスコンのノッチを入れる。この乗務員の動作は今も昔も大きく変わりませんが、ノッチが入った途端に主電動機が起動することで、「ガクン」と車体を震わせて走り出したのでした。

 もちろん、運転士がノッチを入れている間は、主電動機が低く唸る音を轟かせ、それが回っていることを体感できたものです。加速するに連れて低い音は甲高い音へと変化したのも、吊り掛け駆動の電車の大きな特徴でした。そのモーター音と共に、車体にはビリビリとした小刻みの振動が伝わり、それは全身にも伝わる大きなものでした。

 同じ鉄道事業者でも、最新のオールステンレス車が装着する空気ばね式の台車とは違い、デハ3500が装着する台車は、川崎車輌製のボールドウィン形であり、金属コイルばねを使用したイコライザー式台車でした。この種の台車はバネ下重量が大きくなるという特性があり、吊り掛け式駆動では主電動機の架装方法から、それは更に大きくなる傾向がありました。

 

蒲田駅構内へ進入する池上線のデハ3502。1987年頃の撮影で、既に張り上げ屋根化と前面灯火類の一体化、行先表示板から行先表示幕へ更新されている。既にこの頃は「晩年」ともいえ、戦前製の優秀品で揃えられた電装品などが長期に渡って運用を可能にした反面、車両の老朽化は如何ともし難く、この2年後にはすべて運用を終了していった。これは、東急から普通鋼製の車両と、吊り掛け駆動車の消滅を意味し、ライトグリーンに塗られた列車を見ることはなくなった。写真から分かるように、側面の乗降用扉の窓は天地方向に短い小型のもので、こうした扉窓は営団地下鉄の車両にも見られたが、幼い筆者がこの窓の車両に当たると扉付近に立っても外が見えないので、「ハズレくじ」をひいた気分にさせられた。(デハ3502 蒲田駅 1987年5月頃 筆者撮影)

 

 そのため、車輪のタイヤがレールの机上面を転がる振動までも車体に伝わり、加速すればするほどそれは大きくなっていました。加えて、軌道の保線が行き届いていれば気になるほどではありませんでしたが、少しでも砕石=バラストの突固め状態がまばらになっているところを通過すると、車体の重量が軌道に負荷をかけて浮き沈みし、その揺れは車体にも大きく伝わるので上下動は激しいものがありました。

 もっとも、この騒音と揺れ、そして振動こそが当時の筆者が求めた吊り掛け駆動電車そのものだったので、傍目からは「そんなにいいもの?」などと訝しがられても、それはそれで満足したものだったのです。

 しかし、終着の蒲田に到着する頃には、ビリビリとした振動が連続して体を小さく震わせたため、あちこちが痒くて仕方がなかったのです。デハ3500は出力こそ100kWに満たないものでしたが、高回転型の設計であったため、60km/h〜80km/hまでは加速ができました。その分だけ振動も大きくなるので、人間の体にはあまりよいものではなかったようです。そう考えると、当時、吊り掛け駆動の電車が跳梁跋扈していた目蒲・池上線の乗務員は、今日では考えられない過酷な環境の中で、安全・安定輸送を支えていたのでした。

 今日では、この写真のような光景は見ることはできなくなりました。デハ3500はもちろんですが、目蒲線すら過去のものとなり、ご存知のように運転系統は分断されて目黒線多摩川線になりました。

 目黒線営団(後に東京メトロ南北線都営三田線と直通運転をするようになり、川崎・横浜と東京都心を結び、東横線の混雑緩和を担う路線へと変化していきました。一方、多摩川線は目蒲線時代と大きく変わらず、東京の下町の一つともいえる大田区多摩川沿いの町を縫うように走っています。3両編成で運行される列車は、デハ3500など旧型吊り掛け車時代と変わらぬ陣容で、車両こそ1000系や7000系(二代目)と変わりましたが、その性格は大きく変わることはありません。

 また、多摩川園駅もこの系統分離を機に、多摩川駅と「園」が抜き取られて改称されました。かつて、この地に東急が運営する遊園地があり、後にテニスガーデンといったレジャー施設があったことを駅名が伝えていましたが、それすらも歴史の一部になってしまいました。

 いずれにせよ、吊り掛け駆動という旧式の駆動機構をもった電車としては比較的長寿を全うしたデハ3500は、地域住民の重要な交通機関としての役割を果たし、過酷な労働環境の中で安全運行を支えた乗務員たちの功労は特筆に値するものでしょう。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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