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国鉄時代の貨物輸送といえば、ほとんどが運ぶ貨物に特化した貨車が運用されていました。物資別適合貨車と呼ばれるもので、例えば液体や粉体を運ぶタンク車や、粒体などを運ぶホッパ車など、多種多様な貨車が国鉄線上を走っていたので、眺めていても飽きることなく楽しいものでした。
中には変わった物を運ぶ貨車もあったようで、道路の舗装に使われるアスファルト専用のタンク車は、貨物の性質から荷役時には加熱しなければならないため、加熱用のオイルバーナーをタンク内に装備していたため、車端部に煙突を装備するなど外観も変わっていました。
一方で、専用の貨車を用意しないまでも、国鉄が保有する汎用性の高い貨車を利用した貨物輸送も多く存在しました。その多くは有蓋車で、特に後年まで残った紙やパルプは、ワム80000などを多く利用して運ばれていました。
これらの貨物輸送は「車扱貨物」と呼ばれ、貨車1両単位での輸送が原則でした。
つまり、なにか貨物を輸送しようとすると、貨車1両が貸し切りとなり、最寄りの貨物取扱駅に輸送する貨物を運び込み、そこで貨車に載せてから輸送が始められるのです。
今日の鉄道貨物輸送の主役はコンテナ輸送となった。かつては車扱輸送と呼ばれる、貨車1両単位を貸し切ることが基本であったが、この方法では輸送にかかる時間と労力、コストが膨大にかかる欠点があった。そのため、輸送にもスピード感と柔軟性が求められるようになると、鉄道よりも小回りが効き利便性が高いトラックへとシフトしていった。写真はコンテナ貨物列車が行き交う新鶴見信号場で、かつては「三大操車場」とまで言われた新鶴見操車場がこの地にあった。しかし、国鉄の貨物輸送の合理化によって廃止され、多くの敷地は売却されて再開発が進められた。信号場と機関区として残った場所だけが、今日までに操車場があったことを伝えている。(EF65 2096〔新〕が牽く8097レ 新鶴見信号場 2020年8月8日 筆者撮影)
また、石油類などまとまった量の貨物を定期的に運ぶ場合は、いちいち国鉄が保有する貨車を借りていては効率的ではありません。国鉄が保有する貨車にも数に限りがあるので、使いたいときに必ず空きがあるとはいえません。
そこで、定期的に大口の輸送をする企業は、輸送する貨物に合わせた専用の貨車を製作し、国鉄に車籍を編入して運用する私有貨車がありました。中には国鉄が保有する貨車とほぼ同一の構造をもつ貨車もありました。そして、それらの貨車は貨物取扱駅から自社の工場などに線路を引き込んだ「専用線」も敷設され、荷役は自社の工場などでおこなわれていました。
かつて、京浜工業地帯を始めとする全国各地の工業地域にある工場には、多くの専用線が引き込まれていて、ほぼ毎日のように私有貨車が出入りし、多くの貨物を載せて出荷されていました。
日本における物流の第一選択肢が鉄道であった時代、貨物輸送も盛況を極めていましたが、残念ながらそうした時代は長くは続きませんでした。
皆様もご存知のように、1960年代以降は道路の整備も進み、とりわけ高速道路網が発展していくにつれて、鉄道の優位性が失われていきます。自動車の技術も向上し、性能の良いトラックも生産されるようになると、物流の主役は鉄道からトラックに代わられていきました。
トラックであれば、自社の工場の敷地に乗入れ、そこで貨物を載せることができます。この流れは専用線を引き込んだ工場などと変わりませんが、わざわざ鉄道を敷かずに済むというメリットがあります。このことは、高いイニシャルコストをかけず、同時に保守管理にかかるランニングコストもないなど、コスト面で優位に立てます。
また、鉄道で輸送をする場合、貨物取扱駅の近隣に工場を建設しなければ、その恩恵に預かれないという条件もありました。そうした条件に合わない場所に工場がある場合、貨物取扱駅まで貨物を運ばなければならず、運べたとしても貨車に載せ替える必要があります。このことは、リードタイムを長くする要因の一つであり、トラック輸送であれば、工場などで直接トラックに積み込むことで、リードタイムを大幅に短縮できました。
貨物をトラックに積み込んだあとは、指定された送り先まで直行で運ぶことができました。鉄道であれば、送り先でも貨物取扱駅でなければならないという制約もあり、専用線がある場合は別として、駅での積替えが必要になってきます。
発送も荷主の都合のよい時間帯に発送ができ、さらには小口の輸送にも対応できる柔軟性があります。この点で、トラック輸送は鉄道と比べて優位であり、年を追うごとにトラックにシェアを奪われていきました。
岳南鉄道は静岡県にある地方鉄道であったが、その運賃収入の多くを貨物輸送が占めていた。言い換えれば、鉄道線を維持する上で貨物輸送に頼る比率が多かったことになる。しかし、JR貨物は民営化後以後、車扱輸送を原則として廃止する方向で進め、コンテナ化へのシフトを荷主に提案し続けていた。石油類や石灰石など、ごく一部の例外を除いてコンテナ化がされ、ワム車による有蓋車による輸送は紙輸送が最後まで残った。しかし、車両の老朽化や旅客会社から低速な列車の廃止を要請されるなど、時代の変化に抗うことができず、ついにワム車による紙輸送も終了してしまった。このことは、岳南鉄道にとっては大きな打撃で、1984年のダイヤ改正(ゴー・キュウ・ニ改正)で貨物列車が大幅に削減された副作用として、多くの地方鉄道が貨物輸送を廃止したことで大打撃を受けた事の再来でもあった。(ワム380000を牽く岳南鉄道ED40 ©かもめ2号, CC BY-SA 3.0 出典:ウィキメディア・コモンズ)
加えて、国鉄の貨物輸送は、ヤード継走方式を採っていたことも、シェアを奪われる一因になりました。発送した貨物はいくつもの操車場を経由し、目的地へ向かう列車への組み換えが行われていたため、輸送時間も多くかかってしまいます。そのため、送り先に到着する日時が確定しにくく、数日かかるのはあたりまえという状態でした。
トラック輸送であれば、早くて翌日、遅くても2〜3日後には送り先に届けることができ、到着する日時も明確であるというメリットがありました。
さらに悪いことには、国鉄の労使関係が極端に悪化したことも、顧客を逃し貨物輸送を低迷させていくことにつながりました。ストの頻発によって、貨物列車の運休が多くなったことは、顧客の信頼を失う結果となりました。実際、筆者が鉄道マン時代、荷主のところへ出向くと、かなり厳しいお言葉をいただきました。それだけ、鉄道貨物輸送に対する信頼は失われていたといえるでしょう。
こうしたことも背景になってか、貨物輸送の合理化は国鉄末期から推し進められていくことになります。輸送時間が極端にかかり、多くの人員と施設を必要とするため、高コストになったヤード継走輸送の全面廃止と拠点間直行方式への転換、専用線など特別な施設がなくとも戸口での荷役が可能で、小口輸送にも対応しやすいコンテナ輸送への転換させていくことになり、それは民営化後のJR貨物にも引き継がれました。
《次回へつづく》
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