旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

学校の児童生徒だけが乗る「専用列車」 思い出とともに走った修学旅行用電車たち【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 今年もとうとう秋になりました。(この記事を執筆していたのは10月半ばのことでした)毎年のことですが、夏の暑さは尋常ではなく、気温も35℃を超える日も珍しくなくなりました。その分、秋に近づき気温が下がり始めると「涼しい」と感じたり、秋らしさを感じるようになります。

 秋といえば、食欲だったり読書だったり、あるいは運動だったりと、様々な「秋」が言われます。もちろん、旅行も秋はうってつけで、涼しくなってあちこち歩いて見て回るのに適した季節です。

 鉄道を利用した旅行も様々な形があります。その一つに、「修学旅行」と呼ばれる小中高等学校で最終学年の児童生徒が、史跡名勝を訪れる旅行も、一般には秋に出かけると考えられています。

 もっとも、実際には多くの学校が実施するため、地域によっては6月頃から11月頃にかけて順次出発するようになっています。

 地域にもよりますが、公立の義務教育学校、すなわち小中学校では旅行先は決められています。例えば筆者が住む地域では、小学校は栃木県の日光へ、中学校は京都・奈良を訪れるのが定番です。

 しかし、この修学旅行では一度に多くの児童生徒が、それも遠方へ出かけるので遠足のように観光バスとはいきません。そのため、鉄道を利用して移動することが一般的となっています。

 鉄道で移動をするのが一般的といいましたが、小中学生がひとまとまりになって列車に乗るのですから、乗車券も普通のものではなく、団体乗車券として扱われます。筆者も遠足の引率で何度かこの団体乗車券を手配したことがありますが、とにかく手続きは煩雑です。JRであれば事前にみどりの窓口がある駅に出向き、そこで団体乗車申込書をもらってきます。そして、乗車する日時とその区間を記入し、最後に割引に関わる記入欄に学校名、学校校長名を記入し、最後に角印を押下してもらい、それをもって再びみどりの窓口に提出をすると、ここで予約が終了するのです。

 この時点では、「予約ができた」だけなので、実際に乗車券は発券されていません。児童生徒の遠足などでは、当日に休む場合もあります。そのため、休んだ児童生徒の分は乗車人数には入れないので、乗車する直前に乗車した人数を駅に伝え、実際に乗車する人数分の団体乗車券を発券してもらうのです。

 修学旅行でも、こうしたやり取りをして団体乗車券を発券してもらうのが基本です。実際には宿泊も伴うので、ホテルなどの手配もあるため、旅行会社に委託するのが一般的ですが、学校ごとにこの手配をしていては、旅行会社も鉄道事業者も煩雑になってしまいます。

 そこで、修学旅行については、公立学校の多くはその地域ごとにまとめて旅行会社に、ホテルなどの手配から訪問する施設の申込み、現地で移動するための観光バス、そして往復の鉄道の手配をしているのです。

 さて、こうした修学旅行に出かける児童生徒の団体は、乗車する人数がそれほど多くなければ定期列車を利用することも考えられます。しかし、実際には地域ごとに一纏めにして手配されているので、定期列車を利用すると児童生徒が「占領」する状態になるので、一般の利用者が乗車できないという事態になる恐れがあります。かつては、定期列車に専用の車両を増結する方法をとっていましたが、それは客車列車が主役の時代のことです。電車ではそうした増結ができないわけではありませんが、付属編成単位で増結させるなど多くの制約が伴うので現実的ではありません。

 そこで、一定程度の人数が見込まれる場合は、定期列車に増結するのではなく、専用の団体列車を仕立てて運行しました。これが、「修学旅行集約輸送臨時列車」、略して「集約臨」で一般には「修学旅行列車」とよばれる列車なのです。

 

 修学旅行列車、すなわち集約臨は第二次世界大戦後間もない1950年から運転されました。当時の鉄道は客車列車が主体だったので、集約臨も波動用として定期運用をもたない予備車をかき集めて組成し、専用列車として運行していました。

 この当時は戦後直後の混乱期をようやく抜けつつある時期でしたが、国鉄の旅客輸送量は増える一方であるのに対し、輸送力不足は慢性的になっており、ありとあらゆる車両が「動員」されていました。そのため、予備車とはいってもその数は必ずしも満足するものではなく、運用に充てることはできるが設備面で古かったり、接客サービスの面で課題があったりするなど、普段はできれば使わないが繁忙期などでは使わざるを得ないといった車両が多かったのです。

 そのため、集約臨として運用に充てた車両もまた、定期列車ではあまり使わない(使いたくない)車両が大半でした。国鉄初の鋼製車体をもったオハ31や昭和初期の老朽車両はもちろん、木造車を鋼体化改造して登場した60系客車も動員されたといいます。

 

国鉄・JRに修学旅行のためだけの特殊仕様をもつ車両があったことを伝える、貴重な存在になった鉄道博物館の167系モックアップ。もともとは東京にあった交通博物館の展示物だったが、大宮に移転する際にこのモックアップも移設された。乗降用扉は700mmの狭幅であり、塗装も黄1号と朱色4号の「修学旅行色」となっているなど、167系をはじめとした修学旅行用車両の登場時の姿を伝える貴重な存在となった。(©Rsa, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 このように、古くて居住性に難がある車両や、そもそも木造車を鋼体化改造したとはいえ、背もたれが木製で簡素な造りの普通列車用の車両で組まれた集約臨は、修学旅行の児童生徒にとっては、窮屈で乗り心地も悪く、とてもじゃないが長い時間乗っていられない車両に詰め込まれて長旅を強いられるという、現代では考えられない劣悪な環境での旅行でした。

 とはいえ、こうした旅行も平和な時代だからこそできるもので、戦時中などはそうしたことを考えることすら叶わなかったのですが、児童生徒にとって、修学旅行は非常に楽しみな学校行事であることは想像に難くないでしょう。

 一方で、これを引率する教職員からすると、できれば新しくて乗り心地が良い車両で、学校生活締めくくりとなる旅行をさせてやりたいと考えるのは当然といえます。同時に引率はかなりの重労働になるので、せめて列車に乗っている時間だけでも、休息を取れればとも考えるものです。

 また、戦後直後は、遠足や修学旅行といった校外学習は、どちらかというと学校による行事という位置づけでした。しかし、1958年に当時の文部省が修学旅行を学校行事として教育課程に位置づけることを明確にした通達が出されたことで、古くて乗り心地が悪く、窮屈な思いをせずとも長旅を楽しむことができる、専用の車両を製造することが要望されたのでした。

 

《次回へつづく》

 

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